宿毛市史【近代、現代編-水産業-漁況の変遷と漁業の進歩】

明治時代の漁業

明治になってから、従来の封建的な規制が破られたため、人々は生産意欲を増し、漁業に精を出した。明治10年ころは西南戦争などの影響で、インフレを引きおこし、その引きしめ政策として行なった松方大蔵卿のデフレ政策は経済不況を招き、魚価も低落したので、漁村も不景気となったが、当時の宿毛湾沿岸漁民は、主として地先水面の網代で行われる漁業であり、漁獲も少ない上に販売にも隘路があったため、さほど影響は受けなかったと思われる。しかし当時から愛媛県においては、いわし網を中心に漁業がさかんで、不況をのりきるために、漁獲をあげるべく土佐の海にまで出漁するようになった。明治10年には、姫島のムロ網網代をめぐって、鵜来島島民と愛媛県久良漁民との間に紛争がおきている。当時の漁業として盛であったのはサンゴとりであった。サンゴは明治7年に、貝ノ川の中平由良平が月灘沖で採取したのが初まりで、またたく間に沿岸漁民にひろがリ、当時の花形漁業となった。沖の島や鵜来島の人達は当時専ら鰹つりをし、鰹節製造で業をなしていたが、サンゴにきりかえる人が多くなり、大正の初め頃までサンゴ採取業が盛であった。
鰹つリは藩政時代より宿毛湾一帯で行われていたらしく、紀州の漁民が内外ノ浦を基地として鰹つりをしていた記録もある。明治の初め頃は、栄喜、大海の人達も漁のない時は手押しのろ船で遠く足摺沖まで、鰹の群れを追って出漁したそうである。足摺などへ行く時は夕方頃より、5ちょうも6ちょうものろを交代で押して、夜どおし荒波を乗り切って漁場に向い、釣った魚の鮮度を落さぬように、一生けんめいでこぎかえるのであるが、この苦労は大変であったと思われる。又当時は地曳網なども行なわれ栄喜部落民の大月町白浜での操業や、藻津部落民の地先海面での操業も行なわれ建網も行なわれた。又網代も岸近くにあり大島などでも、こうしんあじろ、わればえあじろ、しもあじろ、えぼしあじろとあり、いわし、かます、あじ、さばなどの魚群の回游も多く、大あみなどでとったといわれている。
明治30年頃になると魚群の回游もだんだん少なくなってくるが、明治32年に大島漁業組合が発足している。その沿革史によると、「本組合は明治32年、大島漁業組合の名称において、大島、池島、片島の三部落漁民40名をもって創立し、小型和船十数隻により、鰺、鯖、カマスその他の季節魚の一本釣及び赤物類の延繩漁業を営み、幡西農山村の需要を充たす傍ら小網々代の探見、漁法の改良等専ら漁獲増産に腐心研究す」とあるが、当時愛媛県のいわし網の進歩による乱獲によって、高知県定置網にたいへんな影響を与えていたころであり、何らかの対応を迫られていたことがうかがわれる。
愛媛県のいわし網については、当時高知県より排斥運動がおきて、明治33年に、第1回の入漁契約が締結されている。この頃よりだんだん沿岸の網代での漁業から沖合い漁業へと目をむけられておりさばの夜釣も行なわれた。さぱの夜づりは船上にてたいまつをたき、魚が火にあつまる習性を利用してつりあげるという方法である。赤物類も遠く姫島付近まで出漁しはえなわによって相当に漁獲があったらしく、明治40年代には、防腐剤入リの器にたいやいとよりなどの赤物をつめ、阪神方面などへ送ったという。