宿毛市史【近代、現代編-水産業-漁況の変遷と漁業の進歩】

真珠養殖

真珠養殖の基地丸島
真珠養殖の基地
丸島
真珠養殖の始まりは、大正3年林有造を社長として創立された予土水産株式会社である。この会社は本店を平城におきその目的は「水産動植物の養成採捕製品加工及び販売」となっていたが、宿毛湾の丸島を根拠地として、その周囲の海面で真円真珠の養殖を企業化するために作られた会社である。そこで大正4年に本店を宿毛市土居下の林邸に移し、その目的も、「真珠の養殖及び販売」として真珠養殖一本とした。指導者は真円真珠の技法を完成した西川式技法の習得者である藤田昌世氏であった。その当時伊賀氏広、大井田正経、岩村有助、北村久吉氏等10余名のものが、技術員として藤田氏の指導をうけて養殖の実際にあたり技術を習得した。サンフランシスコの万国博には、この会社から貝製品や真珠を出品し、大好評をうけ、感謝状も届けられている。この出品目録の中に、丸珠6点とあることから大正4年には一部ではあるが真円真珠に成功していたことがわかる。大正5年10月には204個の真円真珠が浜揚げされ、11月上旬171個の良質真珠を、大阪の商人に一匁あたり216円で売り、大正6年には1403個、同7年には1万160個が採取されて大阪商人に売り、大正8年11月には1万6100個が採取され、大阪市外浜寺で予土真珠株式会社主催の入礼会を開いた所、496匁の真珠が1万2500円で売れた。このように真珠養殖は着々と成果をあげてきたので、大正9年1月10日に会社を南海物産株式会社(社長林有造、大正7年4月5日設立、資本金25万円)に合併して、社名を「予土真珠株式会社」とした。社長の有造は銀行から多額の金を借り事業の大拡張を行った。しかし運悪く同9年8月15日に宿毛付近は大洪水となり、松田川堤防の決壊により、新田の防潮堤も決壊し濁流が養殖場に流れこんだので、養殖筏は全部流出し拾いあげた貝は淡水に浸されたためほとんど死に、いきていても真珠をまく力をなくし、全滅の状態となった。その上土砂が流れこみ、海底は泥海となって養殖不能の状態となったため、会社は倒産状態となり技術員たちは各地に分散していった。
世に真円真珠は御木本幸吉が初めて成功したようにいっているが、真実は宿毛が真円真珠の発祥の地である。
その後宿毛では西尾房吉氏が細々と事業を続けたが、西尾氏が廃業して後も片島丸島前や、ひょうたん島前、鳥取前漁場で行なわれており、昭和23年9月から31年8月まで北村久吉、31年9月から38年8月まで井上真珠株式会社が大海(36年8月消滅)小筑紫、栄喜(栄喜漁協と共同)で行なわれている。昭和30年以降真珠の輸出が好況であったこと、沿岸漁業構造改善の一環として「とる漁業から育てる漁業へ」と、政策的に推進されたこともあって、細々と養殖をしていた真珠養殖が、急激に脚光を浴びてきた。このことから先進地は規模拡大を行ない、従来の母貝養殖場を真珠養殖場として利用するようになり、他から母貝を求めるようになった。そこで急に宿毛湾が脚光を浴びるようになった。漁業権設定に基づいて見る時小筑紫漁協が26年9月に設定し、其の後31年9月には宿毛市漁協が設定していることから、真珠母貝養殖の初まった時期が想像される。
母貝養殖と稚貝養殖は30年代半ば頃より発展していったが、母貝養殖は41年・稚貝養殖は42年にピークを示し、これより急激に減少している。
     真珠貝生産高(宿毛市水産課調)
年 次 真   珠 真 珠 母 貝 真 珠 稚 貝
昭和40 217,661,000円
 〃 41   253,632,000円 84,510,000円
 〃 42 30,100,000円 94,451,000円 179,961,000円
 〃 43 17,322,000円 20,360,000円 41,164,000円
この現象は、42年以降真珠業界の不況による真珠養殖業の不振で、母貝、稚貝の需要が急激に減少したことと、養殖業者が急増し、需要と供給のバランスがくずれたこと、漁場の過密が原因となって、生育環境が悪化したため病害が発生し、その上成育状況が低下したので品質が悪くなったことなどが原因で、価格が暴落し、貝を捨てるものや売れ残りの貝をかかえて倒産するものが続出した。その後昭和48年の水揚高を見ると、15の経営体があり、1億7000万円の生産額をあげている。