宿毛市史【近代、現代編-水産業-宿毛湾と土佐さんご】

宿毛湾と土佐さんご

さんごは浦島太郎の昔話に出てくるように、昔から宝物であると考えられていたが、謂南海岸は昔よりサンゴの存在が認められていたらしく、下川口村一帯に伝わる俚謡に「お月さんなんぶ、十三、九ツ、そんなことは誰が云うた。アバが云うた。アバの口剪ぢゃれ」というのがある。この俚謡の意味は正確にはわからないけれど、お月灘(才角、小才角一帯)にサンゴがあると誰がいったか海士が云ったのなら、海士の口を引きさいてしまうぞというような意味だと古くから云い伝えられている。これは土佐藩においてはサンゴは藩の宝と考えて採取を禁じ秘密としていたので、これをいましめていわれたものと思われる。明治維新後はこの禁令がとかれたため、室戸の方で採取が始まった。明治7年高知の商人福島喜三郎が、謂南方面でサンゴ採りを企業として計画し、網をたずさえきたり、貝ノ川の中平由良平をやといいれて、とり始めたのが、この付近の珊瑚採取の初めであると云われる。これがもとになって採取業者がだんだん増加し、珊瑚産地も急激に発見されていった。
珊瑚生育場所は浅い所で60尋(1尋は約1・6m)深い所で140尋程の海底に存在し、鵜来島から足摺にかけては、弘瀬前姫島沖、沖の島と柏島の間、古満目より松尾に至る沿岸の沖合い、足摺岬沖合い付近であった。なお愛媛県東外海村の舟などは鵜来島周辺でも、さかんに採取した記録がある。
沖の島や鵜来島は明治の初めはもっぱら鰹釣りを行なっていたが、明治9年になると沖の島付近にも珊瑚採取船が来て珊瑚をとり初めた。そこで沖の島、柏島の人達は、多数の採取船が入ってきて多数の網を海中に入れると、鰹がこなくなるといって妨害をし、採取船を排斥しようとしたが、採取船の人たちが大挙して、話し合いを求めに来島したので、あくまでも反対することはできず、その後沖の島付近でも珊瑚の採取はさかんとなった。
そこで沖の島や鵜来島の人たちはいままで鰹釣りを主としてきたのを、珊瑚採取に切り換え、珊瑚採取がだんだん盛になっていった。明治13、4年頃は船1そうあたり年間少ない船で200円、多い船は3、400円も採取したという。明治30年頃より41、2年にわたる間は珊瑚網の改良などもあって、大量に採取出来たので、最も盛で700そう程も舟が出て、1そうの舟で4、500円もとった。しかし明治42年8月5日に、暴風雨のため左記のように採取船が遭難し109人の死者を出すという事件があった。
      明治42年さんご船の遭難
地名 死者数 地名 死者数 地名 死者数 地名 死者数 地名 死者数
下ノ加口 伊布利 大 津 貝ノ川 10 小才角 20
窪 津 清 水 下川口 32 弘 見 田ノ浦
沖の島 大 島 愛媛県 36        

この遭難により、船や優秀な船頭を失ったことと、乱獲による資源の枯渇などもあって採取量がだんだん減少してきた。そこで幡多郡漁業組合連合会は、大正2年に珊瑚礁採検奨励規定を設けて、この危機を打開しようとした。この規定により沖の島の小川芳吾、弘瀬の松本伝両名が沖の島沖で珊瑚生育場所を探険した功績により賞金70円をもらった記録がある。このような奨励規定も効果がなかったのか、その後段々下火となり、大正4年には盛期でも270そうほどが就業したに過ぎず、産額も僅か7万円程であった。採取量が少なくなると収入の面でも採算がとれなくなりだんだん就業者がへって大正12年にはついに中止となった。
珊瑚は赤色、白色、桃色、桃ボケ色などがありそれぞれ値段も違うが、珊瑚とりは本当に宝さがしのようなもので運のよい人は大きな珊瑚樹をあげて多額の金を収得している。この付近で採ったもので最大のものは、下川口沖、高取の瀬でとった6貫350匁のものが一番大きくて、価格は2500円であり、一番高価に売れたのは小筑紫沖の森の瀬でとれた重さ4貫800匁、値段3500円のものであるという。
当時のさんごの値段と労賃を比較するのに『城辺町誌』によると、深浦の人が姫島の岡ノ瀬で1貫600匁の珊瑚をとり350円で売った時は、その祝といって部落全体の50人位を招いて酒宴をひらいたというが、当時やとわれて船に乗った人の賃金が7ヶ月間で19円から21円であったというから、全く一かく千金の夢であったことがわかる。