宿毛市史【近代、現代編-水産業-魚の消費と流通】

魚の消費と流通

漁村の魚の販売
宿毛湾沿岸の漁村には大抵後背地に段々畑が山上まで切り開かれているのが見受けられる。これは藩政時代から開かれていたもので、漁民が麦や甘藷を作り食糧の自給自足をしていた生活の名残でもある。藩政時代には藩も漁業に重きを置いていなかったことは、野中兼山の弘瀬浦掟等により察せられる。寛保2年(1742)に調査した郷村調査書と明治27年の高知県統計書並びに昭和49年の宿毛市の統計と比較して見ると、昔は船の所有数も少なく漁家戸数も少なかったが、段々増加していることがわかる。

宿毛市内漁家戸数及び漁船数
年 別 戸   数 船   数
部落名 1742
(寛保2)
1894
(明27)
1974
(昭49)
1742
(寛保2)
1894
(明27)
1974
(昭49)
弘 瀬 40 93 60 50 23
母 島 この頃
 伊予領
80 20 不 明 51 24
鵜来島 この頃
 伊予領
59 47 不 明 17 16
栄 喜 13 55 105 10 40 202
大 海
(伊与野)
11 40 84 37 122
内外ノ浦 33 35 77 18 27 100
小 浦 12 12 17  
大 島 73 153 137 20 114  

明治の始め頃は漁村に限らず、農村においても自給自足の生活がなされておリ、宿毛湾沿岸は中央より遠く離れ、販路にも恵まれなかったので、魚の貨幣価値は少なかったと思われ、魚獲がたくさんあれば処置に困る状態であり、家庭の脂肪分及び蛋白質の補給の役割と、近隣の農家との薪や穀物との物々交換品としての役目が大きかったものと考えられる。したがって農耕と漁業との比率は大して変らないもので半農半漁の生活であった。所が明治も後半になって来ると日本もだんだん工業が発達し、資本主義的貨幣経済が漁村にも浸透し、自給自足経済であった漁村に貨幣の必要性をもたらすと同時に、魚の貨幣価値を高めていった。
そこで宿毛に近い大島では、林新田に堤ができて交通が便利になってくると主婦による魚の行商が行なわれるようになった。氷も無く運搬する車もない当時は、荷かごを天びん棒でになって魚の鮮度を落さないために宿毛まで走るようにして運び売り歩いた。又与市明、萩原、仲須賀、沖須賀や和田、二宮、中角、僑上、平田、山田、芳奈付近や近くの農村へも行商に行ったが、当時の農村はまだ自給性が強く、田植え、祭リ、盆と言った時期や正月等に大量に魚類を買う以外、平常の農家の食生活では余り魚類を買うことは無かった。そこで得意先の村々を売り歩く場合鮮魚の外に塩干にしたいわしやあじ等の干物や、煮干にしたいりこや生節、生節を焼いた焼節等保存のきくもの等も多く売られた。農家は金銭での取引きを喜ばなかったので米や豆、麦等との物々交換が多かった。又出来秋までの付け貸しをするような事も行なわれた。交換した品物は自家の食糧にし余分の物は売って金に替えた。宿毛中村間に道路が開通し交通が便利になると、夕方魚が荷上げされた時は荷車をひいて中村までも売りに行く人があったが、この人達は道のりが遠く道が悪い上に途中に市山峠があったので、大変苦労して夜通し歩き中村の朝の市にかけたと云う。
又一方明治18年頃には宿毛に魚市場があり、大島の人たちは船で松田川をさかのぼり、中市の橋の下流の所にある与作池に船をつけ、市にかけたという。県の統計書によると市場の売買金額は明治18年19,726円、19年17,549円29銭、20年16,090円29銭となっているが、これは大島の人に限らず、小筑紫地区の人達も含まれていたものと思われる。

魚の運搬船のついた与作池
魚の運搬船のついた与作池

魚の販売の進歩
明治も10年、20年と経過するにつれて経済が急激に発展し近代的な国家態勢が整ってきたので、漁業も近代化され専業化されるようになってきた。宿毛付近でも明治32年には大島漁業組合ができた。又明治34年漁業法が公布され、これに基づいて藻津、宇須々木等に漁業組合ができて漁業がだんだん活気を呈して来た。明治40年頃になると、大島には中筋、山奈、平田辺りの商人も、夕方から来て宿泊し、朝早く自転車で持ち帰ったと言う。
又この頃から氷の販売も始まり、清水より日東製氷会社の氷を船で取り寄せ、小野亀八が片島に貯氷庫を造って氷の販売をしていたと言う。氷は大正時代になると中村の幡多製氷会社からも取り寄せるようになった。中村から氷をとるには初めは大八車に積んで運んだので、大島へ着いた時にはとけて驚く程小さくなっていたと言う。大正2年には大島漁業組合にも貯氷庫ができ、本格的な氷利用時代へと進んで行った。
大正初期には阪神よりたいの買い付けもあり防腐剤をいれた容器に密封して送っていたと言う。
宿毛町漁業協同組合の沿革史に、「明治42年専用漁業権獲得、いわし稚魚回遊順調良好にして毎年数万円の魚獲に及ぶとあり、又組合員数150名に増加し、漁獲も逐日上昇せるにつき共同販売所創設」とあるように、当時は漁獲多く、生魚での販売はもちろん加工も盛んとなり二晩も三晩もぶっとうしで、煮干しや塩干しを製造したという。
大正の終りから昭和にかけては愛媛県等より、生ボートが買い付けにきた。生ボートは船に「かんこ」を造って海水が出入するようにし、生きた魚をそのまま高知や宇和島等へ運んだものである。
又大正の終り頃より自動車によって中村などへの輸送も初まり、昭和4年頃には魚類仲買人組合が出資して自動車を購入したのが元になり、仲買人個人でも自動車を持つようになって、魚を運んでは氷を積んで帰ると言う方法が行なわれた。
自動車が使われるようになり、氷の使用も多くなって販路が広がる一方、電話も発達してきたので、各地の漁況を問い合せては魚を出荷する商人が増え、販売も複雑巧妙になっていき、宿毛地区に魚がなくて、他地区で魚獲が多くあった時は逆に移入することも行なわれるようになった。
太平洋戦争中は魚も統制となり、魚の仲買人等もいろいろと制約を受けたが、終戦を迎えると再び活況を取りもどし昭和30年代後半になると冷凍車も登場するようになったのでますます販路が拡大され、現在では宿毛湾の魚が京浜に出荷されるかと思うと、北海道のさば等がはまちのえさとしてやって来ると言う状態で、魚の流通も全国的となってきた。

宿毛漁業協同組合 冷凍車
宿毛漁業協同組合 冷凍車