宿毛市史【近代、現代編-電気事業】

電気事業

私達の祖先は、夜は行燈あんどんのあかりを頼って過した時代が永く続いたが、明治になると、ランプが急速に普及し、電気のともるまでは大部分の家庭で使用された。
ランプは石油を燃やすので、ランプが倒れたり、こわれたりすると火事になり易く、また、炎を出して燃える時、煙がたくさんでて、ガラスでつくられたほやがすすで汚れるので、毎日掃除をしなければならなかった。

楠山発電所
楠山発電所
楠山発電所
ランプに代って登場したのが電気である。宿毛へ電気がともるようになったのは、南海水力電気株式会社が、楠山に水力発電所を造ったのが始まりである。
南海水力電気株式会社は、始め三崎水力電気株式会社として、大正5年8月28日幡多郡清松町(現清水市清水)外3か村を供給区域として電気事業経営の許可を受け、同年9月19日に南海水力電気株式会社と改称して営業を開始したもので、後に本社を高知市におき、出張所を宿毛(真丁)と清水においた。
南海電気は大正7年に楠山水力発電所建設を始めた。発電計画は、楠山字日平上流で松田川をせきとめてダムを造り、この水を導流溝で約4キロメートル下流の尾返の山上まで導き、これより有効落差34・2メートル下方にある発電所に落下させて発電機を回し、電気をおこす計画であった。
そのため先づ建設資材を運ばねばならないのであるが、当時は松田川沿いに、楠山へ荷物を運び入れる道はなく、わずかに山北より山越えで馬を利用して運び入れる方法があった。そこでセメントなどの資材は、主として駄馬により山北より運び入れ、ダムや導流溝、社屋の建設などを行なった。
しかし発電機や鉄管などは重くて、馬を利用することができなかったので、やむなく松田川を筏に乗せて運ぶこととし、大正9年8月頃、荷物の輸送を始めた。
当時松田川は高瀬舟による木炭の輸送が盛んであったため、ところどころに堰台を設けていて舟をひきあげるようになっていた。(木炭の項参照)その上に急流あり、浅瀬ありで、筏に積んだままでは上流に進むことはできなかった。そこで時には荷物を筏より降ろし、河原を木馬きんま(そりのようなもので木や炭を山より運びだすもの)に積んで馬にひかせてひき上げるということも行なわれた。そのため1日にわずかしかあげることが出来なくて、楠山へ到着するまでには幾日も要した。
この運搬途中折悪しく、8月15日の大洪水となり、流された機械もあって、再度注文し、また川を利用して引きあげなければならないものもあった。
このような苦心の末発電所は大正9年12月に完成し、仮認可をうけて宿毛町、橋上村、和田村、平田村、山奈村、中筋村の一部に送電し、大正11年1月12日より、これらの地方へ本格的に送電を開始した。
楠山発電所に設置された発電機は、大正9年東京芝浦製作所と酉島製作所で製作されたもので、出力は200キロワットであった。ここで発電された電気は、宿毛と山田の長尾の変電所に導かれ各家庭に配電されたが、宿毛変電所は、200KVA、長尾変電所は45KVAであった。