宿毛市史【近代、現代編-災害-火災】

火  災

昔から地震・雷・火事・おやじと、恐ろしいものの一つにあげられているが、そのうちおやじのこわさはなくなったが地震と火災のこわさは今も尚続いている。
今まで宿毛市でも火災は随分あったようであるが、大きな火災は戦後に集中している。その主なものはつぎの通りである。

小筑紫の火災
昭和21年12月21日午前4時20分におきた南海道沖地震の直後の出火であった。
火元は船田留次氏宅であった。船田家は現小筑紫の山中建材店の隣にあったが、ここは埋立地に建築されていたので、地震の揺れが特にひどく、歩行困難であった上に、すぐ停電となったので、動きがとれなくて、屋外に避難するのに困難であった。
そこで足元を明るくするため、マッチで火をつけ、その燃えかすを土間に捨てた所、土間においていた油の入った瓶が倒れ、油が土間一面に流れ広がっていたのに引火、またたく間に燃えあがった。その時付近の人は、津波の襲来を恐れて高い所へ避難していたので、消火活動が思うに任せず、火はつぎつぎと燃えひろがリ小筑紫の繁華街19戸を焼失してしまう火災となったのである。
この地震による火災は宿毛でも発生し、4戸が罹災している。

昭和39年3月宿毛の火災
「強風下宿毛の中心街で火事」と高知新聞は報じている。高知新聞によると火事の模様はつぎのようであった。
「3月15日午後10時半ごろ、同市水道町のスーパーマーケット主婦の店南入り口にある喫茶店「ドリアン」の客席から火を出し、折からの強風にあおられて火はまたたく間に燃えひろがり、同喫茶店をはじめ、主婦の店、隣接の宇和島自動車宿毛営業所の事務所、倉庫、独身寮、福島アパートや民家など10戸を全焼、20戸を半焼(延べ約2600平方メートル)して16日午前零時半ごろ消し止めた。この火災で46世帯、136人が焼け出された。出火とともに同市内の消防車4台と動力ポンプ約30台をはじめ、中村市からも3台の消防車が応援にかけつけ、約500人の消防団員で消火に当たったが、強風と水の便が悪かったため思わぬ大火となった。」
被害総額は4,946万円であった。この火事の原因はドリアンの客の1人が、あやまって石油ストーブを倒し、火が燃えひろがったためといわれる

昭和39年7月宿毛の火災
7月26日午後6時頃宿毛市真丁みやこ呉服店の倉庫付近から火を出したが、発見が遅れたのと、空気が乾燥していたので、またたく間に火勢が強くなり、隣接の商店街や、宿毛市農業協同組合倉庫、民家など17棟約1000平方メートルをやき、1時間半後に消し止めた。
出火場所が真丁の商店街にあたるため、密集する商店から商品や荷物を運び出す人、火元のななめ向いにある、セントラル劇場から避難する人や消防団員、ヤジ馬などで一時は大混乱であった。
宿毛市では火災後直ちに災害対策本部を設け、被災者へのたき出しなどの救助活動をした。
 全焼 店舗6、住家3、倉庫4
 半焼 住家3、倉庫1
損害額5,070万円である。

昭和40年宿毛の火災
宿毛大火 40年1月
宿毛大火 40年1月
1月10日午前4時40分頃新町松平清志氏方よリ出火、戦前戦後を通じて最大の大火事となった。
当日は北東約10メートルの強風が吹いており、またたく間に松平宅を焼き、火は付近一帯に燃え広がり、さらに幅4米の道をへだてた向い側商店などに飛び火し、商店や民家、倉庫など21棟を全焼、映画館など7棟を半焼して7時半頃消し止めた。
損害額は1億2,748万7000円である。この火災のため宿毛市はただちに、市役所内に災害対策本部を設け、被災者へのたき出しなど救助活動を行い、又同日緊急市議会を開いて対策を協議し、災害救助費94万5000円を支出し、全焼者に5000円、借家で全焼者3000円その他半焼又は消防活動のための水浸しになった方々に2000円の見舞金をだした。県も10日午前11時半から山本副知事、西村厚生労働部長、永野厚生課長、大町秘書広報課長らが集まって、宿毛市の大火に対する救援対策を協議した。その結果現地調査の上改めて救援策をたてることとなり、とりあえず西村厚生労働部長らが同日午後、宿毛市へ来て被災者を見舞うとともに、県から見舞金として全焼世帯に5000円、半焼世帯に2500円が贈られた。日赤県支部よりも被災者への救援物資として毛布40枚が届けられた。

昭和50年宿毛の火災
2月13日午前3時10分頃、宿毛市本町(水道通り)旅館兼スナック経営仁井佐江子さん方車庫付近より出火し、同店車庫や谷本スポーツ店、萩本稔さんの倉庫、甲藤勝さんの倉庫とつぎつぎと燃え拡がった。
宿毛消防署は勿論、市内の沖の島を除く全消防分団より応援を求め、全力をあげて消火に当ったが、ようやく1時間50分後の午前5時頃消火した。
当日は高知県に異常乾燥注意報か出されており、空気が乾燥していた上に出火時間が深夜であったので発見が遅れ、また消防車か駈けつけてからも、緊急時の水の便が悪かった為放水が遅れたことが原因したといわれる。全焼は商店5、倉庫2、半焼は商店1、部分焼商店1であり、被害総額は5,262万5000円である。
昭和42年より、50年に至る火災状況及び出動状況は別紙の通りである。
最近は家庭でプロパンガス、石油類の使用が増え火災の危険は増大した。しかしその反面、消防署などの消防施設が完備し、電話の普及につれて、火災報知が迅速となり、初期消火が徹底するようになった。過去の大火の教訓を活かし火の取り扱いに充分注意をし、いざという時のために消火器の設置などに気を配らないと、気象状況や発見の遅れなどにより、思いがけない災害を招く恐れがある。

                   火災状況及び出動状況調べ
                                                                                (昭和42年~50年)宿毛消防署管内
区 分


火災種別 焼失面積 焼損棟数 損 害 見 積 書













出動回数



 











































台訓
風練
災出
害動
  
隣 
接そ
応の
援他
年 別 千円 千円 千円
42 315 10 10,940 10 10,950 1,105
43 919 28,198 28,205 1,040
44 14 463 355 8,327 983 9,310 12 1,460
45 16 11 1,043 6,295 27,604 7,697 35,301 26 16 1,720
46 24 18 858 141 15 16,200 339 16,539 14 51 24 1,679
47 17 16 804 10 11 11,307 10 11,317 16 17 10 1,420
48 10 281 30 20,854 1,648 22,502 19 1,229
49 16 13 932 124 12 30,071 329 30,400 20 49 15 1,370
50 三原 (3) (42)
大月 (4) (3) (1) (352) (500) (7) (11,908) (1,000) (12,908) (4) (17) (4) (190)
宿毛 (11) (8) (3) (1,169) (599) (14) (1) (4) (65,806) (3,159) (68,965) (12) (33) (2) (4) 11 1,509
15 11 1,521 1,099 21 77,714 4,159 81,873 16 50 15 1,741