宿毛市史【近代、現代編-教育-義務教育】

戦時体制下の小学校

日華事変(昭和12年)勃発を契期として皇道主義、軍国主義は益々色を濃くし、昭和16年3月の「国民学校令」の公布によって制度的にも「皇国民の練成」を最高目標とした国民学校が誕生したのであった。そして同年12月ついに太平洋戦争に突入、それ以後終戦まで国家非常時体制の一環として戦力の増強を目的とした戦時教育体制を確立していった。国民学校においても工場への動員こそなかったが、物資や食糧の増産に最大の努力を払ったものであった。当時の国民学校の児童は、戦時中の農村の労力不足を補うため、授業をおいて稲刈や麦刈等の勤労奉仕はもちろん食糧不足、衣料不足を補う為のどんぐり拾い、桑の皮はぎやラミーの皮集め等、また、都会の燃料不足を知れば山の子ども達は薪とりをし、終戦間際には松根油採取にまで出かけたのであった。
尚当時は国土防衛のため宿毛地区の海岸はもちろん中村、宿毛間の街道沿線の学校にも、軍隊が駐屯し、児童は校舎をとりあげられ各部落のお宮やお寺に分散させられ、今考えると、とても想像もつかないような苦しい毎日で、教育不在の時代であった。
また、終戦直前ほんの1日か2日であったが、沖の島地区では、敵の来襲に備えるため、児童はもちろん住民全部が橋上、坂本、楠山地区へ集団疎開をしたのであった。

新宿毛小学校 旧宿毛小学校
新宿毛小学校 旧宿毛小学校