宿毛市史【近代、現代編-教育-社会教育】
社会教育
社会教育の変遷
社会教育の制度が、学校教育の制度と異った分野を占めるよう組織されたのは最近になってからである。しかし社会教育の施設の中には明治のはじめに設けられた博物館(明治3年)図書館(当時は書籍館、明治5年)がある。その間機構の改革も若干おこなわれているが地方的にはあまり影響がみられず整備されはじめたのは大正に入ってからである。
大正 8年(1919)-普通学務課内に、通俗教育、図書館、博物館、青年団、その他の事務をとる新しい課の新設。
大正10年-文部省官制改正に伴い、通俗教育を社会教育と改める。
大正13年-文部省分課規程改正に伴い、普通教育課内に社会教育課をおく。
昭和 4年-社会教育局の新設、職務内容として、①青少年団体育成、②青年訓練所、③実業補習学校、④図書館、⑤博物館、観覧施設、⑥成人教育、⑦社会教化団体、⑧図書の認定、推せん、⑨その他の杜会教育。
となっており、社会教育機構の基礎が整備された。
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小筑紫公民館 |
橋上公民館 |
昭和12年(1937)頃から戦時態勢化の社会教育が強化され、社会教育の体系的整備が行なわれ、部落会、町内会、常会に対する訓令がだされ、社会教育における一貫した指導方針の確立と組織が強化され、その他社会教育団体の統合も行なわれ、大日本青少年団(昭和16年)大日本婦人会(昭和17年)の結成も行なわれ、統制社会教育の整備がおこなわれた。
昭和20年(1945)終戦後は統制社会教育から自主的社会教育への転換が行なわれ、社会教育行政の民主化、施設整備、社会教育関係団体の再編成が行なわれ社会教育の役割りの重要さがみなおされてきた。
宿毛市制前の旧町村においては、職員の構成や財政上の問題もあって、社会教育専任の職員の配置もなされておらず兼務の形で担当したりしており、あまり活発な活動はされていなかった。昭和29年宿毛市制発足と共に、宿毛市教育委員会の中に社会教育課として位置づけられ職員が配置された。しかしはじめは学校教育課長の兼務であり、昭和33年度に専任の課長が配置され、名実共に社会教育課としての活動がされるようになった。
その後宿毛市教育委員会は、社会の進展に即応した生涯教育を推進するための社会教育諸条件を整備し、民間指導者およびボランティアリーダの発掘と養成につとめ、社会教育団体の自主的活動の活発化をはかり、併せて青少年教育、成人教育の振興に努力している。
特に公民館、図書館活動は、社会教育の中心的活動機関として、市民の要請にこたえるぺき重要な役割をはたしている。
公民館
昭和22年(1947)文部省令で公民館の制度が法制化せられ、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する事業を行ない、住民の教養の向上、健康の増進、生活文化、社会福祉に寄与することになった。
宿毛市立公民館
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名 称 |
場 所 |
面 積 |
設立年月 |
本館 中央公民館 |
宿毛 |
593.37㎡ |
昭41.3.25 |
分館 小筑紫公民館 |
小筑紫 |
532.23㎡ |
昭28.2.29 |
〃 平田公民館 |
平田町戸内 |
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〃 山奈公民館 |
山奈町山田 |
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〃 橋上公民館 |
橋上町奥奈路 |
221.48㎡ |
昭28.3.31 |
〃 沖の島公民館 |
沖の島町母島 |
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〃 片島公民館 |
片島 |
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〃 坂本公民館 |
橋上町坂本 |
117.00㎡ |
昭32.4.1 |
旧町村時代の公民館としては宿毛町では乾繭倉庫を公民館として利用しており、公民館としての独立した建物はなかった。昭和28年に、小筑紫町公民館、橋上村公民館が公民館としてはじめて建設された。平田町公民館は、平田村立平田小学校内に建設されたが公民館と小学校の体育館として併用されていた。
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宿毛市中央公民館 |
坂本記念館 |
宿毛市中央公民館は現在地に昭和41年3月25日に新築落成し、宿毛市の中央公民館として年を追って市民の利用度が高まり、同50年度においては、別記のように利用件数、利用者もふえ、文化活動の殿堂として、市民の要請にこたえるだけの活動をしめし、公民館が理解され利用度が高まるにつれて、施設のきょうあい、駐車場等の問題があり、中央公民館新築の声がおこり、市としても建設予定地として宿毛市和田に用地を確保し、実現へ努力している。それと併せて各地区における分館活動の要請も高まりをみせており、常勤職員の配置が望まれている。
つぎに公民館の事業は多岐にわたっているがおもなものを取りあげてみると別表のようなものである。
中央公民館の施設と利用状況(昭和50年度)
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室名 |
面積 |
利用件数 |
利用延人数 |
その他の設備 |
大集会室 |
214㎡ |
386件 |
23,666人 |
談話室 30. ㎡
事務室 24.14㎡
宿直室 16.6 ㎡
便所(3か所)13.59㎡
倉庫 6. ㎡
廊下他
計 593.37㎡ |
小会議室 |
26㎡ |
135件 |
2,199人 |
坂本記念館 |
50㎡ |
221件 |
4,920人 |
実習室 |
44㎡ |
46件 |
1,050人 |
計 |
334㎡ |
788件 |
31,835人 |
昭和51年度主要事業
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1家庭教育学級(10学級) |
2婦人学級(1学級) |
3校庭開放事業(2校) |
4高令者教室(2教室) |
5青年モデル事業(1事業) |
6市民大学講座(第6回) |
7明治青年大学 |
8宿毛美術展 |
9青年文化祭 |
10親子映画教室 |
11青年大会 |
12婦人大会 |
13生活会議 |
14成人式 |
15文化講演会 |
16移動理科教室 |
17巡回民謡教室 |
18子どもクリスマス大会 |
19視聴覚機器講習会 |
20公民館だより発行 |
21青年研修派遣 |
22婦人研修派遣 |
23在学青年のつどい |
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24公民館講座 市民合唱団 あみもの 日本画 洋画 書道 楽焼 俳句 クラシックギター |
市民大学講座は昭和46年8月に第1回が開催され、すでに第6回と回を重ね、講師も中央から有名講師を招へい、延48名の講演を聞くことができた。受講者も毎年平均450名程度あリ、公民館の行事として定清化しつつある。
その他各講座、学級には必ず同和問題を取りあげ、同和教育の徹底をはかり、差別のない宿毛市づくりを目標に努力しており、併せて成人式における服装の簡素化、公民館結婚の推奨(現在まで利用件数103件)等、生活の簡素化、虚礼廃止運動にも公民館が中心となり、各団体の協力を得て成果をあげつつある。
図書館
図書館の設置状況については、大正14年発行の『幡多郡誌』によると幡多郡下には、当時図書館又は文庫が18あり、宿毛市関係としては次の2館があったようである。
小筑紫村立図書館 大正12年 9月開館 56冊
橋上村立図書館 大正12年11月開館 54冊
市立坂本図書館の沿革
昭和4年10月東京冨山房社長坂本嘉治馬氏が、今上陛下御大典奉祝記念として郷土開発のため私財を投じて開館されたものである。はじめは小野十三郎邸を買いとり、6室を開放して図書館とした。
当時の施設は本館は旧小野邸で、内部は、書庫1室(6畳)、事務室1室(6畳)、閲覧室として、一般男子用1室(12畳)、婦人用1室(6畳)、児童用2室(6畳と4畳半)、新聞室として土間(4坪)であった。
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市立坂本図書館 |
開館満1か年入館者数 (自昭和4年10月1日 至仝5年9月30日)
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地名 |
昼間 |
夜間 |
計 |
地名 |
昼間 |
夜間 |
計 |
宿毛 |
3,109人 |
3,109人 |
9,637人 |
宇須々木 |
14人 |
0人 |
14人 |
沖須加 |
647人 |
495人 |
1,143人 |
錦 |
29人 |
2人 |
31人 |
仲須加 |
109人 |
52人 |
161人 |
大深浦 |
65人 |
0人 |
65人 |
萩原 |
107人 |
86人 |
193人 |
新田 |
19人 |
3人 |
22人 |
与市明 |
91人 |
62人 |
153人 |
和田 |
278人 |
104人 |
382人 |
片島 |
128人 |
100人 |
328人 |
二宮 |
3人 |
0人 |
3人 |
坂の下 |
115人 |
36人 |
151人 |
平田 |
6人 |
0人 |
6人 |
大島 |
25人 |
4人 |
29人 |
その他 |
126人 |
50人 |
176人 |
小深浦 |
30人 |
9人 |
39人 |
計 |
8,420人 |
4,112人 |
12,532人 |
(開館日数 340日)
蔵書(昭和6年4月末現在)
1 一般図書 2,254冊
2 雑誌用 854冊
3 諸新聞 10種
経費
総経費 5,109円(開館満1年)
内訳
3,657円 図書費
602円 (設備、造作、器具費)
850円 (人件費、雑費、電灯)
職員
館長坂本嘉治馬、司書谷太郎、出納手平地進
評議員
町長坂本進、奥谷清、林譲治、田辺菊冶、北小路直治、大井田正行、高橋嘉吉、北村熊吾、立田義衛、他町会議員15名
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坂本嘉治馬記念碑 |
閲覧利用状況上表のとおり。
昭和16年2月 宿毛町立坂本図書館と改称。
昭和20年4月 閉館。戦争激化に伴い図書館に軍隊が駐留したことと戦災を避けるため旧県立宿毛中学校(現宿毛
高等学校)に移館この時期に蔵書の紛失が多かった。
昭和22年3月 同館所在宅地701坪、建物73坪5合を宿毛町に寄付。
昭和23年8月 建物腐朽部分を取壊し一部を修繕し坂本記念館とする。
昭和28年4月 同地内の町有建物(宿毛町自治体警察署)117坪に宿毛町立坂本図書館として開館、蔵書1,200冊。
昭和29年4月 市制施行に伴ない宿毛市立坂本図書館と改称
蔵書2,049冊、2階閲覧室は宿毛市教育委員会事務局に使用。
昭和33年9月 蔵書5,987冊、11月坂本守正氏の頒徳碑建立。
昭和38年4月 宿毛市教育委員会事務局本庁舎へ移転。
昭和50年度図書利用状況一覧 |
館
内 |
利 用 別 |
男 |
女 |
計 |
一 般 |
2,819 |
5,324 |
8,143 |
学生(中学生以上) |
1,060 |
5,121 |
6,181 |
児童(小学生以下) |
7,571 |
11,486 |
19,057 |
巡
回 |
一 般 |
4,591 |
9,064 |
13,655 |
学 生 |
706 |
1,366 |
2,072 |
児 童 |
11,292 |
15,172 |
26,464 |
合 計 |
28,039 |
37,088 |
65,127 |
備付図書(昭和50年度末)
本 館 23,039冊
移動図書館 6,418冊
計 299,457冊
利用状況は前表の通りである。
移動図書館
巡回車は昭和48年6月市内片島増田栄一氏寄贈の百万円を基金としてマイクロバスを購入、改造し移動図書館とし、市内を左記のように周期2週間、駐車場103か所を設置し巡回サービスをして多くの人々に利用されている。
月 片島地区 篠川地区
火 咸陽地区 小筑紫A
水 平田地区 小筑紫B
木 山奈地区 松田川橋上地区
宿毛市教育委員会は「どこでも、だれでも、なんでも」市民の要求する資料が気軽に求められるよう地域文化の向上につとめているが、なお、予算の関係で住民の要求にこたえられるだけの資料が不足しており、特に視聴覚資料が皆無であり、又本館の建物が老朽化しその上きょうあいであるので新築し、移動巡回図書館の児童専用車を一台増やして市民の要求にこたえたい等、多くの問題をもっているが、図書館の利用率が高い水準を示し順次向上していることはうれしいことである。
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移動図書館 |
青年団
青年団として藩政時代から若連中や若者組があったが、これに代って明治10年代各地に青年組織として青年会、夜学会などが生まれ、なかでも農村における青年組織は知識の習得、風習の改善、農事に改良等に活躍した。特に日露戦争を期として青年組織は著しい躍進をみせた。
『幡多郡誌』(大正14年発行)によると宿毛においても各町村には既に青年団が組織され活動をしている。宿毛関係分を抜すいしてみると左のようになっている。
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町村名 |
団 体 名 |
団体数 |
団長
種別 |
正団員他
の団員数 |
正団員の
年令範囲 |
当該年度
経費予算 |
資 産 |
宿 毛 |
宿毛町青年団 |
1 |
町 長 |
279 |
15才~25才 |
124円 |
畑 1反25歩
山林 1反歩
現金 130円 |
沖の島 |
沖の島村青年団 |
1 |
欠 |
正 119
其の他 29 |
小 卒~25才 |
20円 |
林地 5反歩
現金 300円 |
小筑紫 |
小筑紫村青年団 |
1 |
名望家 |
188 |
14才~25才 |
80円 |
|
和 田 |
和田村青年団 |
1 |
学校長 |
正 183
其の他 5 |
15才~25才 |
50円 |
建物 1000円
預金 300円 |
橋 上 |
橋上村青年団 |
1 |
団 員 |
72 |
15才~20才 |
90円 |
植林 13町歩 |
平 田 |
平田村青年団 |
1 |
学校長 |
正 113
特 86 |
小 卒~25才 |
- |
建物 3棟 |
山 奈 |
山奈村青年団 |
1 |
村 長 |
170 |
14才~25才 |
250円 |
建物 2000円
土地 600円
現金 500円 |
宿毛町青年団(昭和5年度)
各町村の青年団組織についての記憶がないので宿毛町青年団の組織を例にあげると、現在の青年団と違っている点は役員が町長とか学校長、役場吏員であり、青年訓練、補習教育等と関連を持っていたようである。
1 支 部 16。
事務所 宿毛尋常高等小学校
2 役 員
団長 坂本 進(宿毛町長)
副団長 田辺菊治(宿毛小校長)
副団長 立田英雄(宿毛町書記)
顧問 林 譲治(代議士)
顧問 岩村 博(男爵)
3 団 員
-
|
|
職 業 別 |
農 |
商 |
工 |
漁 |
無 |
其の他 |
正 団 員 |
282 |
110 |
36 |
57 |
62 |
3 |
15 |
其の他団員 |
30 |
17 |
1 |
3 |
6 |
2 |
1 |
合 計 |
313 |
127 |
37 |
60 |
68 |
5 |
16 |
4 資 産
-
貯金現金 |
誘拐証券 |
建 物 |
土 地 |
植 樹 |
図 書 |
その他 |
合 計 |
宅 地 |
耕 地 |
山 林 |
325円 |
200円 |
46建坪 |
32坪 |
8畝 |
115歩 |
350本 |
95冊 |
サイレン
その他 |
3299円 |
1710円 |
114円 |
80円 |
320円 |
50円 |
120円 |
330円 |
5 会 費 1人当り20銭
6 事 業
イ 町青年団総会並学科、体力競技会開催
ロ 郡青年団総会並体力競技会参加、年1回
ハ 幡西連合青年団総会並学科、体力競技会参加、年1回
二 町青年団弁論大会開催、隣村とも合併することあり
ホ 講習会、講話会開催
へ 補習教育、青年訓練等による訓練
幡西達合青年団
幡西連合青年団は宿毛町、和田村、橋上村、平田村、山奈村、小筑紫村、奥内村の青年団が加盟、大正7年に結成、大正15年度まで活動していたが、昭和2、3、4年は中絶し、同5年に復活し、事務所を宿毛尋常高等小学校に置いていた。
なおこれらの青年団は現在の青年団と違い男子だけの団体で、女子の場合は「処女団」として男子ほど普及はしていなかったが、女子の体育、知育およぴ道徳的修養を積む目的で結成され、小学校卒業後から結婚前の女性が団員であった。大正14年頃は宿毛町、沖の島村、和田村、橋上村、平田村、山奈村には結成されていた。(宿毛町処女会は大正11年9月結成である。)
昭和10年実業補習学校と青年訓練所が統一され青年学校となり義務制へ移行した。青年団活動も構成員がほぼ同一になり、青年学校との関連が深まった。昭和16年以降は「国民精神総動員要綱」により大日本青年団が結成され戦時態勢に即応した活動が強制された。昭和25年小筑紫町制施行の際、町が被表彰団体調査をした記録によると、当時小筑紫青年団が昭和15、16、17年と幡西地区連合青年団体育大会で3年連続優勝をしており、奉仕活動として村道、部落道、農道の補修作業、海難事故発生の折には団費をもって救助活動をしたとの記録があり、各単位団体としての活動は活発であったようである。
戦後は自主的社会教育の転換により、各市町村に、地域ごとに青年団が結成され活発な活動がなされた。宿毛町には各支部の連合体としての愛宿青年団、小筑紫町には小筑紫連合青年団というように、各部落単位の青年団の連合体ができ、幡多郡連合青年団に加入し、大きな行事は連合青年団が主催をして行なった。宿毛地区の場合には、その他、幡西地区連合青年団(宿毛旧6か町村、奥内村、三原村)があり、体育大会や弁論大会を開催して共励をし、活動は活発であった。単位青年団の場合、地域性が非常に強く、活動の内容も、奉仕活動としては、盆踊りや神祭の世話、清掃作業、町民運動会等を実施、文化活動としては運動会、弁論大会、文化雑誌の発行、夜学会等をやっていた。
時代の進展に伴い、交通機関が発達し、娯楽施設が多くなり、それに高校進学者がふえ、殊に高度経済成長の波に乗り、産業構造が大きく変化しはじめたことで、若い人々が都会へ出はじめ、いわゆる過疎化が進み、それに意識の低下も伴って青年団の活動は低調になった。
現在、前表のような青年団組織があり、事務局を宿毛中央公民館において活動はしているが、戦前、戦後のような活発な活動は行なわれていない。
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|宿 毛 市 連 合 青 年 団|
---------------------------
|
------------------ ---------------------- --------------
|会 計 監 査|------------|本 部 役 員 会|------------|清 友 会|
------------------ ---------------------- --------------
|
-------------- ---------------------- --------------
|団 長 会|--------------|運 営 委 員 会|--------------|部 長 会|
-------------- ---------------------- --------------
| |
---------------------------------------------- --------------
| | | | | | | | | | | | | | | |
ニ 鵜 栄 小 伊 田 西 片 宿 橋 平 山 ------------------
の 来 喜 筑 予 の 地 島 毛 上 田 奈 |情|レ|文|社|
宮 島 青 紫 野 浦 区 青 青 青 青 青 |宣|ク|化| |
青 青 年 青 青 青 青 年 年 年 年 年 |・|・|・|会|
年 年 団 年 年 年 年 団 団 団 団 団 |組|体|女| |
団 団 15 27 23 23 35 35 |織|育|子|部|
44 名 名 名 名 名 名 ------------------
名
婦人会
婦人会については、『幡多郡誌』によると、明治37、8年の日露戦争の際、「恤兵費を醵出し、或は軍隊に慰問袋を寄贈し、或は赤誠を罩めて出征軍人の為に其の行を壮にし、凱旋勇士を歓迎するため到る処に凱旋門を作り或は又、恤兵を目的とする婦人会を作った」とあり、「幡西婦人会(今の伊賀男爵母堂、竹内明太郎母堂等の名流婦人、会の中心となりて働けり)等は其の最たるものなりし」と書かれており、一部の人々により、国策にそって結成された感が強い。
○宿毛町婦人会
宿毛町の婦人会が正式に結成されたのは、大正12年6月で当時4支部(宿毛、大島、宇須々木、小深浦)よりなっており昭和6年頃は150名の会員を持っていた。昭和7年3月の『郷土研究』(宿毛小学校編)によると
目 的 イ実際的知識の修得 ロ婦徳の涵養 ハ家庭経済の合理化 ニ風紀の改善
事 業
本会は毎年1回総会を開き、会務の報告及び事業の協定等をなし、会員相互の親睦を計るため会員自身の手料理で昼食を共にし余興として運動会、福引等をなす。又火災、水害その他の罹災者及び貧困者及ぴその他に対する義損金、寄付金、会の基金増殖の目的として活動写真演劇等を催す。修養方面として満月会名士の講演会、短期講習会を開催する。
尚定例実行事項左の如し。
イ 県連合婦人会総会へ代表派遣
ロ 小学校と連合し、敬老会を行う
ハ 戦病死者慰霊祭当日遺族へ茶菓接待
二 軍艦入港の際、軍人歓迎
ホ 小学校児童中、善行者を表彰
へ 会員共同貯金、30銭以上
ト 会費月額、5銭徴収
となっており、、事業内容も社会的慈善事業を中心に活動をしておる。
いくたびか変遷を重ねて昭和4年10月これらの団体は統合されて高知県婦人団体連合会にまとめられ、昭和7年10月には大日本国防婦人会が結成せられ、「婦人の智徳を進め、家庭経済の合理化、風紀の改善」を目的とした会も、日本の軍国主義に左右され、昭和17年2月には大日本婦人会に統合せられ、「婦人報国、銃後強化の一翼をになう」戦時体制に即応する婦人団体となり、諸行事の時には肩に「大日本婦人会」のたすきをかけ、防火訓練、竹槍訓練にまでかりだされ、終戦と同時にその姿を消す運命となった。
昭和23年7月教育委員会法が制定され高知県教育委員会が同年10月発足し、教育の民主化が行なわれた。中でも学校教育と併せて社会教育が重視され、婦人会の自主組織化の行政指導が行なわれた。しかし当時は、終戦の混乱期であり経済生活も不安定であり、そのうえ指導者の問題等もあって宿毛地区では婦人会の結成はできなかった。
昭和25年頃になって、家庭婦人の研修の必要性が叫ばれ、旧宿毛町街区、片島、大島、小筑紫町、平田町、山奈町、橋上町につぎつぎと地区単位の婦人会が結成された。
当時は、地区により多少異なるが修養会(家庭婦人としての研修、料理講習会)、戦没者の慰霊祭、敬老会、地区運動会、社会福祉への寄付等の事業を行なっていた。
昭和29年宿毛市制の発足に伴ない、市連合婦人会結成の動きがはじまり、昭和30年には宿毛市連合婦人会が結成されたが、活動は各地区の単位婦人会が主であり、連合婦人会としての活動は役員が主であり、活動そのものは低調であった。連合婦人会当時の事業として現在残っているのは、「明るく正しい選挙をすすめる会」である。
44年頃、宿毛市農協婦人部が、市へ対して補助金を要請したことに端を発して、宿毛市社会教育課、公民館の助言指導もあり、現在の宿毛市婦人団体連絡協議会が発足した。現在の連絡協議会の活動は極めて活発であり、特徴としても、漁協婦人部、農協婦人部、地域婦人会が同一組織として活動しているのは県下でも他に類を見ない。
宿毛市婦人団体連絡協議会の主な事業
○各種学級(婦人学級・家庭学級等)
○福祉施設慰問、敬老会
○冠婚葬祭の簡素化運動
○環境衛生(奉仕活動、蚊蠅の駆除等)
○青少年不良化防止運動
○明るく正しい選挙推進運動
○健康管理運動(結核、ガン対策)
○市議会見学
○県外視察
----------------------------
|宿毛市婦人団体連絡協議会|
----------------------------
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----------------------
|総 会|
----------------------
|
----------------------
|本部役員、代議員会|
----------------------
|
--------------------------------------
| | | | | | |
小 大 片 宿 平 漁 市
筑 島 島 毛 田 協 農
紫 婦 婦 街 婦 婦 協
町 人 人 区 人 人 婦
婦 会 会 婦 会 部 人
人 〝 〝 人 〝 部
会 2 3 会 2 〝
〝 0 0 〝 5 1
4 0 0 2 0 1
0 名 名 5 名 3
0 〟 〟 6 〟 0
名 名 名
〟 〟 〟
職業婦人が多くなったため、全体として活動が困難になってきたことや、指導者の熱意により、活動の格差がでてきている。また昭和51年度より市財政の窮迫により、補助金が減額になり、個人負担が多くなって来た等の問題が残されているが、家庭婦人の教養は、子弟の教育と密接な関係があり、環境、経済生活にも影響する所が大きいので今後の活動が期待される。
体 育 施 設
野球場
昭和43年1月22日明治百年記念事業計画推進協議会が開催され、総合グランド建設について話しあいがなされた。
野球を通して青少年を育成し、市民に夢をあたえよう、ひいてはそれが商工の振興に貢献するとして、市内大深浦の山を切り開いて、面積41,541平方メートルの野球場を建設、隣接して525平方メートルの雨天練習場と7214.8平方メートルの補助グランドをつくり、昭和46年3月完成、総工費1億4千万円。この野球場が出来て以来、社会人のソフトポール、野球熱はさらに高まり、昭和51年度の体育協会ソフト野球部には、60チーム約1000名の登録者がおり、また昭和51年2月にはプロ野球の近鉄バファローズのキャンプ地となるなど、ますます進展の一途をたどっている。
武道館
柔道、剣道の愛好者は多いが、これまで日本古来のスポーツ専用の練習場がなく、学校の屋内運動場等を借りていた。昭和46年3月に鉄骨造平屋一部2階建延390平方メートルの武道館が沖須賀に工費1千10万円で完成、柔道、剣道、空手道のスポーツ教室をはじめ、少林寺拳法、居合道等土曜日曜はもちろん、夜間の利用者も増え、日程調整にうれしい悲鳴をあげている。
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