宿毛市史【近代、現代編-民政-保健】

明治時代の医者

明治時代の医者は、藩政時代よりの家業を継いだ医者がほとんどで、その前半の時代は漢方医的なものが多かった。 宿毛には、代々伊賀家に仕えて医を業とした山下重旭がおり、弘見には宿毛の羽田文友に師事した大井田正水が、山田には江口省菴がいた。

  山下重旭
山下家は初代山下才兵衛が、貞享2年宿毛領主山内源蔵に、医業を以て仕えて以来、代々伊賀家に仕えた医者の家系である。2代は才兵衛、3代剛庵、4代朴庵、5代剛琢、6代が重旭である。
重旭は天保7年に家督を相続、慶応2年には騎馬となり知行30石をもらい、明治以降も宿毛の本町で医を業とした。重旭の子が山下龍吉である。

  江ロ省菴
江口家は代々医を業とした家である。省菴は盛記の子として山田村に生れ、医を大黒泰笑に学び、21才で家業を継いだ。明治初年疫痢が大流行し、死者が多かった。省菴は不眠不休防疫に努むること7昼夜、ついに昏倒してしまったほど家業に精励した。当時不治の病とされた癩病も、その初期に診療してよく治癒したので名声は県外にまで及び、遠く九州方面よリ患者が来る有様であった。明治40年、73才で没、江口準はその長子である。
                                        (土佐名医列伝より)

  酒井有慶 大井田正水
有慶、正水ともに幕末の宿毛の医者、羽田文友の弟子である。有慶は戊辰の役に軍医として出陣したが、その後は酒井融といい軍人或は官界に入り医者にはならなかった。
正水は弘見で父祖の業を継いで漢方医となり、後には西洋医学を大阪の岡本求に学んで漢洋を兼ねた医者となった。明治39年没、その第4子が大井田正行氏である。
明治後年になると宿毛には医学校を卒業した医者ができた。高知県は明治15年から明治20年まで6年間、高知県立医学校を置いたのであるが、その医学校に学んだ中平光成、山下龍吉、大学東校(後の東京大学)を卒業した野並玄朴等がいた。

  中平光成
高岡郡窪川の人、明治15年県立医学校に入って同校卒業、明治27年前期試験、同28年後期試験に合格し、それから弘見、宿毛、柏島、愛媛県久万町、城辺等を経て宿毛の上町で開業、大正年中まで宿毛で活躍した。

  山下龍吉
宿毛の漢方医山下重旭の長子で、明治6、7年緒方純の門に入り、その後高知県医学校で修業、更に17年より東京済生学校(長谷川泰先生)に学ぴ、明治37年より大正時代まで宿毛で活躍した。家は本町にあった。

  野並玄朴
明治2年上京して大学東校に入り、卒業の後25才の時東京陸軍病院に入って軍医となり、後には国事に奔走したが明治33年土佐へ帰り、宿毛、滑南、南予の各地で開業し、後宿毛に移り本町で開業し大正10年没した。キリスト教信者で大方町の人。墓は宿毛の城山墓地にある。