宿毛市史【近代、現代編-民政-保健】

大正時代の医院

前述の山下龍吉、中平光成、野並玄朴などはともに大正時代まで宿毛で活躍した医者であるが、この時代には川田福松(大正初年頃より同10年頃まで本町の現四国銀行付近で開業していた。)大井田正行、平田に安沢一清、片島に平田常四郎たちの医者がいて医院を開いていた。

  大井田医院
大井田正行氏は京都府立医学専門学校を卒業し、東京渋谷の日赤病院へ2年間勤務したが病気のため郷里の弘見に帰省した。宿毛有志の北村遊亀、坂本進、高橋嘉吉、藤堂安家等に強要されてついに宿毛で開業することになり、本町の3階の西隣で大正2年8月22日に開業した。その後大正5年、真丁にあった宿毛警察署が本町へ移転したので、その地をゆずり受け、その庁舎を医院として真丁に移転した。

  安沢医院
平田生まれの安沢一清は金沢医専卒業後、高知の病院に務めていたが、大正3年、平田へ帰郷し、平田村戸内森で開業した。大正12年まで医者をしたが死亡したのでその後は他より医者をやとって経営したり、休んだりした。昭和9年筒井氏に譲りその地は筒井病院となっている。

  平田医院
平田常四郎が大正のはじめ頃片島で開業し、昭和22年子息の平田千種氏が後を継いだが昭和27年頃大阪の尼ヶ崎に行った。その跡は永野医院となり今では国吉医院となっている。

  下田歯科医院
下田益栄氏は苦学して大阪で歯科学を研究し大正2年免状を得、大正4年宿毛の本町、3階の西隣の大井田医院の2階で開業、大正6年には真丁に移転更に土居下に移り営業、その妻光恵氏が技工に当り名声を得たが、昭和20年7月益栄氏死亡のため廃業。

  宿毛病院
押ノ川の大資産家、押川光俊が泥谷俊壯をやとって経営した大病院が宿毛病院である。
押川光俊の母勢以が結核にかかって、病院がないため手おくれとなって死亡した。その時設備のととのった大病院の必要さを痛感した押川氏は、母の供養のためにもと、全財産をそそぎ宿毛の街の西はずれに大正14年、入院室52(ベッド250)内科、外科、小児科、産婦人科、面積五反歩余という大病院を建て泥谷俊壯や医学博士平井進をやとって、病院経営をはじめたのである。しかし、病院経営は思うようにいかず、ついに赤字となリ、昭和5年には押川氏は病院を手ばなし、泥谷氏が経営していたが戦時中に日本医療団宿毛病院となり、更に終戦後県立宿毛病院となった。