胸像設置者:菊一会
胸像製作者:中野 滋 氏
揮毫:畑 神左 氏
弘化2(1845)年、宿毛に生まれた岩村高俊は、22歳のころ兄の通俊が長崎に鉄砲の買い付けに行くのに同行します。同郷の大江卓も一緒でした。無事鉄砲を購入した通俊は宿毛に戻りますが、高俊と卓は長崎にいた陸援隊所属の土佐藩士に頼み込み、陸援隊に入隊し京都へ向かいます。高俊は前々から「京都へ行き、新しい日本の力になりたい」と考えていて、京都へ行くチャンスをずっとうかがっていました。
しかし高俊たちが京都へ入った直後、陸援隊隊長の中岡慎太郎が、坂本龍馬とともに暗殺されてしまいます。その後も陸援隊は存続し、高俊たちも籍を置いていました。
このころ戊辰戦争が始まり、陸援隊は明治政府軍の各部隊に分かれました。
高俊は信州方面に進軍する部隊の、軍監という軍隊を率いる役に任命され、順調に勝ち進んで新潟県まで攻め込みました。
ある日、高俊の陣に長岡藩家老の河井継之助(かわい つぐのすけ)という人がやってきます。高俊と継之助は、小千谷の慈眼寺というお寺で会談をすることになりました。
継之助は「長岡藩は旧江戸幕府軍、明治新政府軍のどちらの味方でもない。長岡藩は中立なので、攻撃しないでほしい」と主張します。
しかし、長岡藩はこれまでにも新政府の要望をことごとく無視して、藩の軍備を強化していました。今更継之助のそんな話を信用できないうえ、軍備を強化した長岡藩を放置するのは危険と判断し、会談はわずか30分で終わっています。
夜になって、継之助は再び会談を希望しますが、これを高俊は拒否し、結果両軍は戦闘状態に入ります。激しい戦いで両軍が多くの犠牲者を出しますが、最後は新政府軍が長岡藩を攻略しました。
これが「小千谷談判」と呼ばれる出来事です。
戊辰戦争後、26歳になった高俊は栃木県を皮切りに全国各地で地方長官を歴任しました。
兄の通俊の後任として佐賀権令に任命された際には、江藤新平をリーダーとした佐賀の乱という武力反乱がおきますが、通俊の協力もありわずかな期間でしずめています。
また、愛媛権令に任命された際には、政府の方針にしたが地租改正を進めました。全国的には国民の暮らしがとても苦しくなり、不満がたまった人びとによる一揆が各地で頻発していました。
しかし、愛媛県の人たちが一揆をおこすことはありませんでした。それは、高俊と愛媛県民の間に信頼関係があったからです。高俊は愛媛県で、学校や道路、病院、橋を作る公共工事に地元の人たちを積極的に採用しました。さらに松山英学所(現・県立松山東高校)をつくり、教育にも力を入れました。
このころは政府に不満を持つ人たちによる自由民権運動が活発な時期でしたが、高俊はこれをおさえつけるのではなく、広い心であたたかく見守りました。こうして県民との信頼関係を築いた高俊は、民権権令と支持され、地租改正などもスムーズに実行できたのです。
その後、石川県・愛知県・福岡県・広島県と地方長官を歴任していきました。
正三位
叙勲
勲三等旭日中綬章
大日本帝国憲法発布記念章
勲二等瑞宝章
(児童生徒向け)
高俊は22歳のころ、兄の通俊について長崎に鉄砲を買いに行きました。
通俊は鉄砲を買った後宿毛に戻りましたが、高俊はそのまま京都へ行きました。新しい日本の力になりたい、という思いがとても強かったのです。
高俊が京都へ着いたころ、戊辰戦争という明治政府軍と江戸幕府軍との戦いが始まりました。
高俊は明治政府軍として、新潟県まで攻め入りました。
そこに、長岡藩(現在の新潟県)の河井継之助(かわい つぐのすけ)という人がやってきて、小千谷の慈眼寺(じげんじ)で話し合いが行われました。
継之助は、「長岡藩は明治政府軍、江戸幕府軍、どちらの味方でもないので、攻撃をしないでください」とお願いにきたのでした。
しかし、長岡藩は今までも言うことをきかずに武器を集めていたので、危険だと思われて、話し合いは30分で終わってしまいました。
継之助はもう一度話し合いを求めましたが、高俊はことわります。その結果、長岡藩と明治政府軍で戦いがおこり、明治政府軍が勝ちました。
この出来ごとを「小千谷談判」(おぢやだんぱん)といいます。
この後、高俊は栃木県をはじめ、日本のいろいろなところで政治を行いました。
兄の通俊の後に佐賀県に行ったときには、佐賀の乱という反乱がおきましたが、通俊と協力して戦いをしずめました。
愛媛県に行った時には、県民の人たちに仕事を与えたり学校を作ったことでとても信頼され、慕われました。
石川県・愛知県・福岡県・広島県にもいっています。
【歴史ふれあい広場内 他説明】