胸像設置者:菊一会
胸像製作者:中野 滋 氏
揮毫:畑 神左 氏
天保11(1840)年、宿毛に生まれた岩村通俊は、31歳の時に、開拓を命じられて北海道にやってきます。
当時の北海道は、家畜のみならず人間も熊に襲われることが珍しくない状況で、田畑の工作が難しい土地でした。
この広大な土地で人びとが安心して暮らせるよう、通俊は様々な計画を実行していきます。
まず手掛けたのが札幌の整備です。京都のようにマス目状に区画し、効率的で分かりやすい町にしました。町の中央には、幅105mもある大通りを作ります。この大通りには、火事を広げない役割もありました。
大通りの北側には市役所などを置き、南側にたくさんのお店ができたことで、札幌の町はどんどん大きくなりました。
続いて北海道全体の開拓に取り掛かろうとしたところで、佐賀権令に任じられたことでしばらく北海道を離れることになりましたが、その間も北海道のことを気にかけていました。
10数年後となる44歳のときに、北海道について改めて調査をし「北海道はまだまだこれからだ、北海道庁を置いて開拓に全力をつくさなければ」と思い立ち、政府に提案。通俊は北海道長官として再び北海道にやってきます。
誰も近寄ることのなかった上川盆地に北海道の中心地を作ろうと考え、できたのが今や北海道で札幌に次ぐ大都市となった旭川です。
通俊の努力が実り、札幌や旭川を中心に北海道は大きく発展していきました。札幌と旭川には通俊の銅像があり、旭川には通俊が初めて上川盆地を訪れた時に詠んだ
「世の中の 涼しきものは 上川の 雪の上に照る 夏の夜の月」
の歌碑もあります。
札幌開拓後、北海道を離れた通俊は佐賀権令になります。このころ、廃藩置県が行われたばかりで、これに不満を持った人たちによる抗議活動が激化していましたが、通俊は代償金を支払うことであっさりと問題を解決します。
そうした手腕がかわれ翌年には東京に転勤となります。後任には弟の高俊が着任しますが、その頃佐賀の乱と呼ばれる武力反乱がおこります。通俊は権令になって間もない弟を助けるため佐賀に向かい、兄弟で協力してわずかな日数で反乱をしずめたのです。
明治10(1877)年、西郷隆盛らによる西南戦争が起こりました。その頃通俊は、鹿児島権令を任命され、ちょうど出発するところでした。
通俊は「家族全員を連れて行くので、軍艦を貸してほしい」という条件を出し、これが受け入れられ、家族そろって軍艦に乗り込み、鹿児島へと向かいました。
軍艦で乗り込んできた通俊に鹿児島の人も驚きましたが、通俊はあせらず落ち着いた対応を徹底し、政府の考えをやさしく分かりやすく説明しながら混乱をしずめていきました。
熊本城で政府軍に敗れた西郷隆盛は、鹿児島に戻り自害しますが、通俊は「隆盛さんの亡きがらを渡してもらえませんか」と政府軍に頼み、それを引き取りていねいに葬りました。
この行動に鹿児島の人たちは感激し、のちに隆盛の墓の前に通俊の記念碑を建て、今も残っています。
正二位
受勲
勲二等旭日重光章
勲一等瑞宝章
(児童生徒向け)
岩村通俊は、まだ全然開拓されていなかった北海道をきれいに整備しました。
そのころの北海道は熊におそわれることも珍しくなく、とても危険な土地でした。
そんな土地で人びとが安全に暮らせるように、通俊はいろんな計画をたてました。
まず、札幌のまちを整備しました。京都のまちのようにマス目状にまちを分けて、真ん中には幅105mもある大通りを作りました。
こんなに大きな道にした理由には、火事が起きても燃え広がらないように、という意味もありました。
一度、北海道をはなれてしまう通俊ですが、10数年後に戻ってきて、今度は旭川(あさひかわ)というまちの整備に取り掛かります。
北海道の人たちは通俊に感謝して、今でも札幌と旭川には通俊の銅像がたっています。
一度北海道をはなれた時に、通俊は佐賀県に行ったりしました。
佐賀県に1年ほどいたあと、弟の高俊に任せて東京へと向かいますが、そのころに大きな反乱がおきます。通俊は佐賀に戻って、兄弟の力を合わせてしずめることができました。
西郷隆盛が西南戦争という反乱を起こしたときに、通俊は西南戦争の中心地である鹿児島に行くようになっていて、ちょうど出発するころでした。
通俊は宿毛から鹿児島に、なんと軍艦を使って行きます。大きな船で来た通俊に鹿児島の人たちはびっくりしましたが、通俊のていねいな対応で少しずつ認められていきました。
隆盛が亡くなったときに、通俊はていねいに葬りました。この行動に鹿児島の人たちは感激し、のちに隆盛のお墓の前に記念碑を建てました。
【歴史ふれあい広場内 他説明】