設置者:宿毛市民有志
明治18(1885)年宿毛に生まれた北見志保子は、宿毛小学校の教員となります。
東京に出て教師を続けるかたわら文学のみちに入り、歌集を出版したり昭和24(1949)年には著名女流歌人を網羅した「女人短歌会」を結成しました。昭和25年(1950)には宮中歌会始に歌人として陪聴を許されています。
奈良県にある小さな丘「平城山(ならやま)」を題材として「人恋ふは かなしきものと 平城山に もとほりきつつ 堪えがたかりき 古も つまに恋ひつつ 越えしとふ 平城山みちに 涙おとしぬ」という、平城山をはさんで離ればなれになった男女がそれでも相手を想い続けているという悲恋の短歌を詠み、代表作となりました。この歌は昭和10(1935)年に高名な作曲家平井康三郎によって曲もつけられ、当時の流行歌として多くの人に親しまれました。
歴史ふれあい広場の歌碑に刻まれている「山川よ 野よ あたたかきふるさとよ こえあげて泣かむ ながかりしかな」は、志保子が宿毛に帰ってきたとき人びとからあたたかく迎えられたときの感激の気持ちを表した歌です。この歌碑の除幕式には歌友を多く連れて帰郷しました。
歌碑を建てるときには、さらに感謝の言葉として「つたなきわが歌の石ぶみ、生れし町の小学校に建てらる。ひとへにふるさと人のこころあたたかき賜にして、うたた感にたへず」と添えています。
(児童生徒向け)
宿毛小学校で先生をしていた北見志保子(きたみ しほこ)は、東京に行って先生を続けながら短歌を詠むようになりました。
奈良県にある小さな丘「平城山(ならやま)」をテーマに読んだ歌「人恋ふは かなしきものと 平城山に もとほりきつつ 堪えがたかりき 古も つまに恋ひつつ 越えしとふ 平城山みちに 涙おとしぬ」は、平城山をはさんで離れてしまった悲しい恋を読んでいて、童謡「とんぼのめがね」の作曲で知られる平井康三郎(ひらいこうざぶろう)が曲をつけてヒットした志保子の代表作です。
歴史ふれあい広場にある碑に刻まれた「山川よ 野よ あたたかきふるさとよ こえあげて泣かう ながかりしかな」は、志保子が東京から久しぶりに宿毛に帰った時、宿毛の人たちに温かく迎えられて感激したときの気持ちを表した歌です。
【歴史ふれあい広場内 他説明】