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【歴史ふれあい広場】歴史ふれあい広場

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▼児童生徒向け説明

 

宿毛の町の成り立ち

 

宿毛は、土佐国(高知県)と伊予国(愛媛県)の境にある国境のまちでした。

 

 初代土佐藩主の一豊は、土佐に入国してすぐ領内を視察し要地に親族などの重臣を置いて治めさせることにしました。宿毛も要地の1つであり、宿毛6千石を任された初代宿毛領主山内可氏(やまうちよしうじ)は一豊の姉・通の息子です。

 

 可氏は宿毛入城とともに城下町を作ったと考えられています。可氏は宿毛の土居に家を構え、その南に重臣たちを配してさらにその南に家臣を配しています。そしてこの侍屋敷の西と南、本町と水道町付近を町人の町としました。

 

 宿毛の町は現在でも町幅が狭く、T字型の行き詰まりの道路が多いです。これも可氏の城下町形成の際に作られています。宿毛の町全体が城郭であるため、敵に一気に土居に攻めてこないようにつきあたりのT字の道を多く作り、複雑な構造としたのです。松田川を堀と考えていたのか、橋もなく通行は渡しで行われていました。

 

 

岩村英俊(礫水)邸と岩村三兄弟

 

 安政大地震を機にこの地に邸宅を構えた岩村英俊。

 

 英俊は宿毛領主10代氏固・11代氏理に仕え、文武両道の才を活かし宿毛の財政を支えました。

 

 尊皇攘夷を志しており、土佐勤王党党首だった武市半平太が宿毛に来た際に交遊を深めています。

 

 英俊には3人の子供がおり、それぞれが地方長官を歴任し江戸から明治へ変わる激動の時代に活躍しています。

 

 長男・岩村通俊、次男・林有造、三男・岩村高俊を揃って岩村三兄弟と呼んでいます。

 

 

宿毛の教育と日新館

 10代目氏固の時に創立した郷学校「講授館」は天保2(1831)から天保5(1834)年までに設立されたと言われています。現在の宿毛文教センターの敷地内にあったとされています。

 

 文久3(1863)年、向かいに移転し「文館」と名を改めました。教師に酒井南嶺などが起用され、読書・習字・算術・作文の4課が設けられていました。

 

 慶応3(1867)年に文館を廃して、歴史ふれあい広場の西側に日新館を新設しました。日新館跡碑が今も残っています。その後、明治2年の藩政改革により日新館のすべてを土佐藩に寄附しており、準大徳業生として酒井南嶺が引き続き任命されていました。

 

 宿毛には街中に数多くの碑があり、この歴史ふれあい広場にも様々な碑が集約されています。ここにある以外にもたくさんの碑があります。

 

宿毛と土佐藩奉行・野中兼山

 2代目土佐藩藩主・忠義の時代に土佐藩奉行として政治を担った野中兼山は宿毛でも多くの事績を残しています。

 

 特に知られるのが治水問題についての対策です。それまでの宿毛は非常に水害に弱く、松田川が氾濫し洪水がおこると町の全てが浸かってしまっていました。しかし兼山が松田川の河戸堰や宿毛総曲輪と呼ばれる堤防の工事を進めたことで、水害の被害を大幅に抑えることが出来るようになりました。

 

 しかしこの工事はかなりの大掛かりなもので、それを短期間で行おうとしたものですので相当な負担が工事の担い手である地元住民に押しかかりました。川の水が凍るまでは休ませない、と言われていたなどの伝承もあります。

 

 また、伊予との間に起きた沖の島・篠山の国境問題でも指揮をとりました。

 

 しかし徐々にその強行的な政策に住民たちの不満が募っていき、寛文3(1663)年に兼山が職を辞した直後死去すると、その罪を兼山の子どもたち8人に問うことになりました。

 

 一族は高知から宿毛に送られ、幽閉されることになりました。敷地から一歩も出ることも許されないまま、40年を過ごしたのです。許されて外に出ることができたのは娘3人だけでした。

 

 その娘の1人、婉(えん)が先立つ兄たちを悲しんで詠んだ歌「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の涙なりけり」の歌が碑となって、歴史ふれあい広場に建てられています。

 

 

(児童生徒向け)

宿毛の町の成り立ち

 宿毛は土佐藩(今の高知県)と伊予藩(今の愛媛県)の境にある町です。

 

 江戸時代に土佐藩を治めていた山内一豊(やまうちかつとよ)は、宿毛を国を守るうえで特に大事な場所だと考え、甥っ子(一豊のお姉さんの息子)である山内可氏(やまうちよしうじ)を宿毛の領主としました。

 

 文教センターや林邸のある中央の街並みを作ったのも可氏だといわれています。

 

 今の宿毛保育園があるあたりに大きな屋敷を構えていて、中央のまちに家来や住民を住まわせていました。宿毛保育園のすぐ裏側にある山には、江戸時代まで宿毛城というお城もありました。

 

 中央のまちは道が細く入り組んでいていますが、これは敵が攻め入りにきたときに簡単に屋敷までたどりつかせないようにわざとこのように作っています。そんな江戸時代の工夫が今まで繋がっています。

 

岩村英俊(礫水)邸と岩村三兄弟

 

 岩村英俊(いわむらひでとし)は江戸時代に起きた大きな地震(安政大地震)を機にこの歴史ふれあい広場がある場所に住み始めました。

 

 英俊は「礫水(れきすい)」とも名乗ることがあります。

 

 英俊は宿毛の領主に仕え、文武両道の達人だったといわれています。

 特に槍の達人であったといわれています。昔はいつ戦いが起こるか分からなかったので、兵術と呼ばれる戦いの技を学ぶこともとても重要だったのです。

 

 英俊には3人子供がいて、それぞれ日本の色々なところで活躍しました。

 長男・岩村通俊(いわむら みちとし)、次男・林有造(はやし ゆうぞう)、三男・岩村高俊(いわむら たかとし)をあわせて岩村三兄弟と呼んでいます。

 

宿毛の教育と日新館

 江戸時代に作られた郷学校(今でいう塾のようなところです)「講授館(こうじゅかん)」は今の宿毛文教センターのところにありました。

 

 その後、林邸の横あたりに移転し「文館(ぶんかん)」と名前を変えます。

 ここでは習字や算数、作文などが学べていました。

 

 そして、歴史ふれあい広場の西側に移転して「日新館(にっしんかん)」となります。

 ここで江戸時代の宿毛の人々はたくさん勉強をして、明治時代以降いろんな分野で活躍するようになるのです。

 

 宿毛のまちには色々な碑があります。歴史ふれあい広場にある碑のほかにもたくさんあるので、ぜひ探してみてくださいね。

 

宿毛と土佐藩奉行・野中兼山

 土佐藩(今の高知県)の政治を任されていた野中兼山(のなか けんざん)は、今でも宿毛の町も守ってくれている宿毛総曲輪(すくもそうくるわ)と呼ばれる堤防を作ったり、松田川に河戸堰を作ったりしました。

 

 江戸時代までの宿毛は水があふれるとすぐに街にあふれだして、浸かってしまっていましたが、この堤防と河戸堰のおかげで今でも宿毛の町は洪水から守られています。

 

 しかしこの工事はとても大掛かりなうえ短い期間で行われたため、工事を行っていた宿毛の地元の人たちに不満が募っていきました。言い伝えによると、冬に工事をしているときも川の水が凍るまで休むなと言われていたそうです。

 

 兼山は、伊予藩(今の愛媛県)との間に起きた国境の問題にも積極的に取り組みました。沖の島や篠山(ささやま)を巡って、どこまでが土佐藩でどこまでが伊予藩か争っていたのです。

 

 このように宿毛にとっての問題をたくさん解決してくれた兼山でしたが、政治から手を引いた後、亡くなってしまいます。

 それでも住民たちの兼山への怒りはおさまりません。

 兼山がしたことは今の私たちの生活を守る素晴らしいものでしたが、短い間にたくさんのことをしてきたので住民たちに無理を強いてしまい、それが怒りとなっていたのです。

 そして住民たちは、この兼山の罪を兼山の子ども8人に背負わせることにします。

 子どもたちは高知から宿毛に送られ、お屋敷から一歩も出ることが許されないまま閉じ込められてしまいます。

 

 子どもたちが出ることを許されたのはそれから40年後、8人いた子どもたちも3人の娘しか生き残っていませんでした。

 その3人の娘の1人、婉(えん)はお屋敷から出た後高知に戻ってお医者さんになります。

 

 先に亡くなっていくお兄さんたちを悲しんで詠んだ歌「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の涙なりけり」という歌が碑になって、歴史ふれあい広場に残っています。

 

【歴史ふれあい広場内 他説明】

野中兼山遺族幽閉之地

北見志保子 歌碑

岩村礫水翁旧居之碑

岩村三兄弟生誕記念碑

岩村通俊男爵像

林有造翁像

岩村高俊男爵像

追思之碑

このページに関するお問い合わせ
宿毛市 宿毛歴史館
〒788-0001 高知県宿毛市中央2丁目7番14号
TEL:0880-63-5496 FAX:0880-63-2618
E-mail:rekishi@city.sukumo.lg.jp
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