胸像設置者:菊一会
胸像製作者:中野 滋 氏
揮毫:畑 神左 氏
天保13(1842)年に宿毛に岩村英俊の次男として生まれた有造は、幼いころに林茂次平の養子となります。戊辰戦争の際に敵対する松山藩のようすを探る任務を果たし、その後北陸に転戦します。
明治時代になり、土佐藩が高知県になると、有造は高知県の参事(現・知事)に任命されます。
このころ、高知県では医療に対する不信感と県政に対する不満が重なって暴動に発展し、数千人が参加する大きな騒動がおきました。この時有造は「軍隊は使わない」と宣言します。その宣言通り、まず騒動のリーダーの4人だけを捕まえて厳しく罰しました。それ以外の人たちには「全員を許すことにする。ただし、抵抗するものは処罰する」と伝えました。優しさときびしさをうまく使い分けて、宣言通り軍隊を使わず暴動をしずめました。
有造には江藤新平という良きライバルがいました。
明治政府内で征韓論が起きた時には、2人とも「朝鮮を攻めるべきだ」と主張しましたがこの意見は通らず、納得できなかった2人は新政府の仕事をやめてしまいました。
新平は「すぐに政府を打倒すべき」と主張しますが、有造は「しばらく待たなければいけない」という考えだったため、ここで2人の道は分かれました。新平はその後佐賀の乱という武力反乱を起こし、結果敗れ新政府軍に追われる身になりました。
新平は佐賀から高知に向かい、有造を訪ねました。有造は新平を見逃しましたが数日後新平は捕らえられ佐賀に送られました。新平は取り調べで有造と会ったことを話さなかったため、有造が共犯となることはありませんでした。
有造に大きな影響を与えた人物として、板垣退助がいます。
生まれる前から縁があると揶揄されるほど、2人の考え方も同じだったのです。
退助は、政府のやり方を言論で批判し、政府に頼らず国民の意思で日本を変えようと、有造や多くの仲間たちと自由民権運動を始めました。この運動は民衆にも広く知られるようになり、多くの人びとに受け入れられました。
しかし政府からは危険な運動とみなされてしまい、取り締まりの法律をつくられて思うような活動ができなくなってしまいました。それでも退助たちは、江戸時代に結ばれた外国との不平等な条約の撤廃や、税金の引き下げなどを実現するため、政府に国会開設を迫ったのです。
さらに有造たちは、憲法についても考えました。「選挙で選ばれた国民の代表が憲法をつくる」という案を推しましたが、「明治天皇が定める憲法をつくる」という政府の提案に負けてしまい、実現することができませんでした。それでも時代が移り、有造たちの考えは、現在の日本国憲法に生かされています。
やがて自由民権運動は、暴力的な混乱や政府の厳しい取り締まりにあって消滅してしまいますが、有造は自分の意思を貫き、明治23(1890)年、48歳の時に日本初の衆議院選挙で当選。後に農商務大臣などを務め、20年近く日本の政治にかかわりました。
この時期に、有造の邸宅権政治拠点として「林邸」が建てられました。林邸は家としての役割以外にも、支援者を集め会合できる場所として作られました。この特殊な構造は全国的にも珍しく、現在は家の構造を最大限残しつつ改修され、市民にひろく使っていただけるスペースとして活用されています。
有造は、西南戦争勃発にあわせ大阪城を乗っ取る計画を立て、明治政府を倒そうとしていましたが、実行する前に捕まってしまいます。これを「土佐挙兵計画」といいます。この事件の裁判で、岩手県で10年間刑に服するように言い渡されました。
獄中で、宿毛の人びととやり取りをしていた有造は、宿毛がこれから先発展するためにはどのような開発を進めればよいか相談されます。有造は片島へ続く新田の開拓と、片島の港の整備を進めるよう伝えます。当時、片島や大島に橋はなく、新田も整備されていませんでした。片島には塩小屋があるくらいで、人の姿はほとんど見かけることはありませんでした。
しかし助言通りに整備することで、新田が広がり片島に汽船が入るようになって様々な物資が入り、宿毛は次第に発展していきました。
66歳で政界を引退した有造は、宿毛に帰り真珠の養殖や荒瀬山の植林を進めたりと、晩年は宿毛の発展に尽力しました。
従二位
(児童生徒向け)
林有造は、江戸時代まで呼ばれていた「土佐藩」から今も使われている「高知県」に呼び名が変わったころ、初めての知事になります。
県民が騒ぎを起こしても、有造は軍隊を使わず、優しさときびしさをうまく使い分けて落ち着かせていました。
有造は、板垣退助(いたがき たいすけ)という人と一緒に「自由民権運動」に取り組みます。
「自由民権運動」は、政治のありかたを暴力ではなく言葉で変えるため、政府ではなく国民の意思で日本を変えるために始められました。
しかし、政府から危険な運動と思われてしまい、思うように活動できなくなってしまいましたが、国会を開いてもらって国民の考えを政治に反映できるように、活動をすすめていきました。
「自由民権運動」は途中でなくなってしまいますが、有造は初めての選挙で衆議院議員になり、日本を良くするためにがんばりました。
有造は、日本を変えようとするあまりに政府に捕まってしまい、岩手県で10年間過ごすように刑を受けていました。
そんな中、宿毛の人たちは有造に、どういう風に宿毛を整備すればもっと発展するんだろう、と相談を持ち掛けていました。
有造は、当時まだ人も住んでいなかった片島を整備すること、全然整備されていなかった新田に道をつけることなどをアドバイスしました。
その結果、片島には大きな船が入るくらい立派な港になり、新田もきれいになり道ができました。今、私たちの生活につながる道をつくることを、有造は求めたのです。
【歴史ふれあい広場内 他説明】