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【歴史ふれあい広場】野中兼山一族幽閉之地

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▼児童生徒向け説明

 

 設置者:宿毛ライオンズクラブ

 

野中兼山は2代目土佐藩主山内忠義の絶大な信頼を得て、画期的な産業開発政策を数多く行った土佐藩奉行です。寛永13(1636)年に22歳で奉行職につき、寛文3(1663)年に引退するまでの27年間、土佐藩内の各地で用水路工事や築港、町の創設など今でいうインフラ整備を主に事業を行いました。

 

 宿毛では、松田川の河戸堰と、その河戸堰から下流の松田川右岸と中新田から貝塚に至る宿毛の町をとりまく堤防である宿毛総曲輪(すくもそうくるわ)の工事が兼山の指導のもと行われています。この2つがなければ宿毛の町は少しの洪水でも水浸しになってしまうほど、現在でも宿毛にとって極めて重要なものとなっています。

 

 宿毛総曲輪を築くにあたり、宿毛平野の中を流れていた古川、清水川、牛の瀬川の分流を一つにまとめて荒瀬川に合流させ宿毛平野の周りに大堤防を築いて、洪水から宿毛の町を防ぐようにしています。

 

 結果この堤防のおかげで宿毛は洪水から守られましたが、分流をまとめるため荒瀬川の川幅を広げ岩盤を打ち砕き水の流れをよくするという大掛かりな工事は、並大抵の苦労ではなし得ませんでした。

 

 伝承によると、兼山はどんなに寒い日でも工事を止めさせず「荒瀬川の水が凍ったら休ませる」といったそうです。川が凍ることもなく工夫たちは働き続けることになり、荒瀬の川が凍るのを祈り「雪や降れ降れ あられも降れ降れ 荒瀬の川が凍るまで」と歌いながら苦しい工事を続けたといいます。

 

 兼山は治水問題や国境問題の処理など他分野の政策を進めましたが、短期間にこれほどの大掛かりな事業を強行していったため多くの無理が生じていました。3代目土佐藩主忠豊は家老より提出された兼山に対する「百姓を酷使しすぎている」「商人への掟が厳しすぎる」などと書かれた意見書を兼山に見せ、今後悪いところを改めるように申しつけました。しかし兼山は、自分の政治生命もこれまでと思い寛文3(1663)年に直ちに引退します。心労もたたったのか、その年の暮れに49歳で病没します。

 

 しかし、兼山反対派はその死後も追及の手を緩めず、ついに寛文4(1664)藩主忠豊は3代目宿毛領主山内節氏に兼山の子どもたちをひとまず宿毛で預かるよう命じました。しかし、結局その後父の科を逃れることはできないとした罪状が長男清七に申し渡され、子供たち8人は宿毛で幽閉されることになりました。

 

 この時何故宿毛が預ける先に選ばれたかというと、宿毛は高知から30余里(120kmほど)も離れており、仮に子どもたちが復讐に走ろうとしても簡単に高知まで来ることは出来ないし、宿毛山内家(伊賀家)と野中家は親類関係にあるので、よく監視をするに違いないと見込まれたためだと言われています。子どもたちが謀反を起こせば監視不十分の罪で宿毛山内家も罪に問われるため、逆心を抱くこともできないとの考えがあったとされています。

 

 8人が幽閉された家は、板囲いのさらに外側に竹矢来(竹を荒く組んで作る囲い)を構え二重に取り囲んだ上四隅に番所を置き、その番所をさらに竹矢来で囲むという極めて厳重な監視状態だったと伝わっています。

 

 こうして8人が幽閉されてから40年が経った頃、末子の貞四郎が元禄16(1703)年にこの世を去り、野中の男系はことごとく絶えてしまうのでした。

 

長男清七一明、二男欽六明継、(三男四男早世)、五男希四郎継業、六男貞四郎行嗣、三女寛、五女将及び正妻市、養母よめの墓は歴史ふれあい広場から北側に位置する伊賀家墓地にあります。

 

 生き残った娘の寛、婉、将の3名は、元禄16(1703)年に初めて自由が許され獄舎を出ることが出来ました。

 

 寛と将はそのまま宿毛に残り、婉は高知へ帰り医者となって父の功績を後世に伝えました。

 

 先立つ兄を悲しむ婉が読んだ歌「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の涙なりけり」という歌が歴史ふれあい広場の歌碑になっています。また、婉は本山町出身の小説家・大原富枝の作品「婉という女」でも描かれています。

 

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▲野中兼山の家系図。宿毛山内家と親類関係であることが分かります。

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▲国境問題が起こっていたころの沖の島の地図。伊予と土佐がそれぞれ主張する国境が書き込まれています。

 

 

 

 

(児童生徒向け)

 

 

 江戸時代のはじめごろに土佐藩で政治をしていた野中兼山(のなか けんざん)は、宿毛の町の川のまわりを整備して宿毛の町が洪水にあわないように堤防の工事を進めました。昔の宿毛は雨が降るとすぐに浸かってしまっていたため、堤防ができて街は洪水被害にあいづらくなりました。この堤防は「宿毛総曲輪(すくもそうくるわ)」と呼ばれています。

 

 しかし、大きな工事を短い期間で終わらせようとしたため宿毛の人たちがたくさん働きに行かなければなりませんでした。そのため冬の間は川が凍るくらい寒くならないと工事を休ませてもらえませんでした。

 

 兼山は引退してすぐ亡くなってしまいましたが、兼山の政治のやり方に不満をもっていた人々の怒りはおさまりませんでした。兼山が亡くなってしまったなら、その罪はその子どもが背負うべきだ、とする動きが強まり、兼山の子どもたち8人は高知から宿毛に送られることになりました。

 

 子どもたちは父・兼山の罪を問われて、竹の柵に囲まれたお屋敷に閉じ込められることになりました。

 

 罪が許されないまま40年が経ち、許されてようやく外に出ることができたのは3人の娘だけでした。

 

 その娘の1人、婉(えん)が先に亡くなってしまったお兄さんのことを悲しんで詠んだ「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の涙なりけり」という歌が碑に刻まれています。

 

【歴史ふれあい広場内 他説明】

歴史ふれあい広場

北見志保子 歌碑

岩村礫水翁旧居之碑

岩村三兄弟生誕記念碑

岩村通俊男爵像

林有造翁像

岩村高俊男爵像

追思之碑

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〒788-0001 高知県宿毛市中央2丁目7番14号
TEL:0880-63-5496 FAX:0880-63-2618
E-mail:rekishi@city.sukumo.lg.jp
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