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岩村三兄弟として知られる岩村通俊・林有造・岩村高俊の父である岩村英俊(礫水)の家の跡に建てられた碑です。明治の書家・日下部鳴鶴の書で建てられています。
両側と背側の3面に英俊・3兄弟の通俊・有造・高俊の3兄弟の事績が刻まれています。
英俊は宿毛領主10代氏固・11代氏理に仕え、卓越した手腕で大阪などに出向き財政の確立に一役買っていました。特に財産運用の才があり、禄十石を加増されたり、嘉永元年には江戸にも赴きその時も功により禄十石が加増されたと碑にも記されています。
また宿毛きっての槍術の達人であり、北条流の兵学の師範として名声高く、そのうえ和文や漢文に特に秀でている典型的な文武両道の達人でした。
幕末動乱期で騒然たる世相の中で英俊は尊皇攘夷の道を歩み、日本の将来を見極めつつ宿毛の若い人材の教化につとめました。この働きで明治維新後自身の息子たちをはじめとした優秀な人材が宿毛から数多く輩出されました。
尊皇攘夷を掲げて結成された「土佐勤王党」の党首武市半平太が宿毛を訪れた際交遊を深めています。
碑に刻まれている漢文の書き下し文は以下の通りです。
礫水岩村翁は土佐の國宿毛の人なり。
歿後數年子通俊君等其遺稿を校刊す。
既にしてまた其舊里故宅を追憶して曰はく、宅は數畝のみ、然れども樹石は先考の栽培布置する所なり。
井泉は先考の汲みて以って茗を瀹、硯を洗ひし所なり。
而して今且に荒蕪す、吾輩將に泉を濬へ、園を理め、花木を增植し、一片石を磨ぎ、文以って故址を識し、時に兒孫親故を其下に會し、具を納め舊を叙し、以つて柔梓恭敬の意を致さんと欲すと。
因つて文を余に属す。
翁諱は英俊、有助と稍す。
系は平敦盛に出づ。
後土佐安藝郡に來り住するものあり。
門脇氏を稍し敦盛の號を襲ふ。
俊忠に至り安藝國虎に仕へ大井邑を領し大井氏に更む。
俊忠の子俊重長曾我部元親に仕え、香美郡岩村郷に遷り始めて岩村氏を稍す。
長曾我部氏の亡ぶるや、俊重の子俊顯山内候の宰宿毛邑主伊賀氏に仕へ、獄吏と爲り陰徳あり、子俊義、俊義の子正人となり廉直、會計吏となり累功擢でられて士班に列す。
正武の子勝俊は即ち翁の考なり。
余の友中村敬宇翁の遺稿に序して曰はく、翁天性眞實氣宇恢廓、讀書忠孝の大義を知る。
其雄藩武弁の家に生るゝを以つて尤韜鈐に精し。
體雄偉にして膂力あり。
善く槍を使ふと、余も亦嘗て翁を識る。
敬宇の言信なり。
其邑主氏固氏理二君に仕へ尤心を世務に用ふ。
又理財に長ず。
弘化中屢命を奉じて大阪に赴く。
皆要領を得たり。
邑主功を賞して禄十石を増す。
嘉永元年從つて江戸に赴く。
復十石を増す。
一世にして再増する蓋し異數なりといふ。
而して翁優國の念斯須も忘れず。
好みて後進を誘掖す。
宿毛の多く名士を出せる興りて力あり。
明治県新、翁己に老ゆ。
而して三子皆顯達す。
乃ち東京に来り祿養を享け優游自楽み、礫水又蘆苗軒と號す。
素と多藝、碁を善くし俳句に工なり。
而して詩は其尤長ずる所なり。
嘯花吟月以つて餘年を養ふ。
翁陶詩に和して云はく、
陶家の迹を追はんが爲に暫く國家の憂を忘れんと、其志す所見るべし。
明治十五年考東京に終る。
壽七十有九。
配小野氏子女を擧くる事各三。
長通俊君嗣たり。
次有造君出でゝ林氏を継ぐ。
次高俊君別に家を成す。
女二は夭し、一は本山氏に適く。
通俊君夙に勤王の大義を倡へ、戊辰の歳藩候容堂山内公に請ひ、村の儲主氏成君をして邑兵を率ゐ、師に北越に曾せしめ、自之に從ひ参畫功多し。
伊賀氏の男爵を授かるは此に由ると云ふ。
後淸要に歴任して農商務大臣に進み、正二位勲一等に叙せられ男爵を授けらる。
有造君も亦從つて北越に戰ひ功あり。
山内公刀を賜ひて之を賞す。
後歐洲に抵り、淸國に使し、征韓を論じ、民権を倡ふ。
帝國議會起るに迨び衆議院議員に擧げられ、又農商務大臣、遞信大臣に任じ、正三位勲四等に叙せられる。
高俊君初め鷲尾隆聚氏に從ひ義旗を高野山に樹つ。
後軍監と爲り奥越の間に轉戰す。
功を以つて禄を賜ふ。
七年佐賀の亂起るや適權令たり。
身を脱し賊を平ぐ。
後諸縣知事に歴任し貴族院議員に轉じ、正三位勲二等に叙せられ男爵を授けらる。
嗚呼明治勃興の際、攀鱗附翼、功を建て名を著したるもの何ぞ限らん。
而して一家顯岩村氏の如きは比ひ罕なり。
三子材能の致す所なりと雖、抑も亦翁の教養素あるにあらずんば、安ぞ能く此に至らんや。
宗范仲淹少にして天下に志あり。
甞て自誦して曰はく、士は天下の憂に先ちて憂ひ、天下の楽に後れて楽むべしと。
其子純仁、純禮、純粹皆一代の名臣と爲る。
仲淹義莊を其鄕に置き族屬を周贍す。
純仁亦賜を捐てゝ以つて之を廣くす。
後世に至り范氏の族尚餘恩を饗く。
翁の仲淹に於ける其遇同じからずと雖、其志は即ち一なり。
三子も亦赫々純仁等に比して愧づるなし。
今や乃ち桑梓に繾綣す。
思ふに故園を修し、親舊を會し、今を撫し古を懐ひ、以つて恭敬を致す、猶是義莊の遺意の如きか。
即鄕黨其澤を被る。
而して岩村氏の社は蓋し將に未だ艾せざるなり。
系するに詞を以つてす。
曰はく世傳ふ之祖獄胥吏と爲る。
二姫の寃せられて獄裡に繋囚せらるるあり。
邑主惡む事甚だし。
鹽を飼ひ水を禁ず。
二姫渇悶、苦極つて燬くが如し。
乃祖竊に謂へらく、此人理に非す。
しかず之を隮はんには譴を獲ば死せんのみと、水を巾に漬す。
嚥むに甘旨の如し。
二姫泣きて謝す。
死して靈鬼となり。
以つて君の家を護り、以つて君の社を永くす、陰徳陽報事或は爾らむ。
唯伊碵士、家國憂殷、潜光發する所、三璋咸賢なり。功を懋め、爵を賜ひ、一門蟬聯、紫綬若々、冕紳莘々、風月を吟詠し、厥天年を全うす。
憂を先にし楽を後にするもの翁あり。
淵明の宅、環堵蕭然、仲蔚の居、蓬蒿人を沒す。
鬱たる樹あり。洌たる泉あり。
止先徳を仰ぎ、玆翠珉を視る。
明治四十一年五月
正四位勲三等文學博士 重 野 安 繹 撰
(児童生徒向け)
宿毛で生まれた岩村3兄弟(岩村通俊(いわむらみちとし)・林有造(はやしゆうぞう)・岩村高俊(いわむらたかとし)のお父さんである岩村英俊(いわむらひでとし)のお家があったところに建てられた碑です。
英俊は「礫水(れきすい)」とも名乗っていたため、この碑は「岩村礫水おじいさんの昔のおうちの碑」という意味がある「岩村礫水翁旧居之碑」と呼ばれています。
英俊は文武両道で、特に槍や漢文などに長けていました。宿毛の領主に仕えていて、財産の管理などを任されていました。英俊に任せると財産がどんどん増えていたそうです。
岩村礫水翁旧居之碑には両横と後ろの3面に漢文が彫られていて、英俊や岩村3兄弟それぞれの活躍について記されています。
【歴史ふれあい広場内 他説明】