野中兼山は多くの治績をあげた有名な政治家であるが藩主・忠義の隠居後、失脚、その後半年で病死した。 だが追及の手はゆるまず、寛文4年(1664)3月2日遺子8名に対して罪が下り、宿毛へ幽閉された。 竹矢来で二重に囲まれた家の中で幽閉されること40年。 その間によね・清七・欽六・希四郎が病死し末子貞四郎は自害した。 男系が絶えたので、残った寛・婉・将の3人の娘ははじめて許され、婉は高知に帰り、寛と将は宿毛に残って余生を送った。 宿毛の西山墓地には、よねと婉を除く他の遺子たちの墓と共に正妻・市、その母・よめの墓もある。 昭和36年に市の史跡に指定されている。
野中兼山遺族の墓地
最終更新日