宿毛市

岩村 英俊

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岩村 英俊


岩村英俊は又の名を茂俊、又は有助と呼んだ。その号礫水をもって知られている。宿毛邑主安東氏(後の伊賀氏)の臣である。岩村家は遠祖平教盛から出ているといわれている。寿永の昔、教盛は壇の浦の波に消え、その子孫が逃がれて土佐に入り、安芸郡馬地村魚梁瀬の奥地に住みついたといわれている。世々この地に居り門脇姓をとなえたが、安芸国虎に仕えて大井村に移り、大井と姓を改めた。俊忠の子俊重は長曽我部元親に仕えて香美郡岩村(現在の南国市)に移り住み、ここで始めて姓を岩村と改め、現在に至っている。

長曽我部氏の滅亡した後、山内一豊が入国し、俊重の孫岩村俊顕は一豊の家老宿毛邑主安東節氏に仕えることになって、宿毛に移り住んだ。俊顕の孫正武(礫水の祖父)は頭脳が人並みはずれて明せきで、安東家の会計を司どり、すこぶる重用されて士格に列せられた。礫水は心が大きく、体格が非常に良い上に腕力が強くて、安東家切っての槍術の達人であった。その上、和漢の学に通じ、文武両道に秀でていたので、邑主より重く用いられた。10代安東氏固、11代氏理の2代に仕え、命を受けてたびたび上阪して安東家財政の確立につとめたが、特に理財の才に富んでいたので、いつも適切な処理をして禄十石を加増せられた。嘉永元年には命によって江戸におもむいたが、その時もまた功により十石を加増された。この時代に1代で知行が2回も加増されるということは、宿毛郷だけでなく、土佐藩としてもまったく異例のことで、その人格手腕が如何に優れていたかを察知する好資料であると考える。

ペリーが浦賀に渡来してからは、天下はまったく騒然となり、辺郷宿毛にまでその波は押寄せて来た。学に長じていた彼は、時の流れと大義名分をよくわきまえ、土佐西部の重鎮として尊王擁夷の大道を歩いた。彼の教養と人格は子弟は勿論、一般人士を教化して維新の役はもとより、維新後においても、幾多の人傑を宿毛より出し、岩村一家からも歴史をかざる人物が十指を屈するに足る程続々と生れたのである。

明治維新後は居を東京に移し、悠々自適、囲碁、俳句、詩歌をもって余生を楽しんだが、明治15年8月、79才を以って歿した。妻は加乃と呼び、小野義質の女で賢夫人の誉が高い。

岩村家系図(◎は宿毛人物史掲載人物)

岩村家系図

礫水の子孫中代表的な人物略伝を次にしるす。

◎長男 岩村 通俊
北海道長官、元老院議官、農商務大臣、貴族院議員、男爵、正二位勲一等。

◎次男 林  有造
高知県知事、代議士当選6回、逓信大臣、農商務大臣、従二位勲四等。
郷土のため、宿毛新田を開拓し、片島港をひらく。

◎三男 岩村 高俊
東征軍軍監(維新の役)佐賀、愛媛、石川、福岡、広島各県知事、貴族院議員、男爵、従二位勲二等。

◎孫  岩村 八作
北海道開拓に功あり叙正四位。
妻麟子は「開拓の三女性」としてたびたび顕彰を受け、皇后陛下よりも恩賜品を賜う。

◎孫  岩村 俊武
海軍将官官議議員、海軍中将、大湊要港司令官、正四位勲一等功三級瑞宝章。

◎孫  岩村 通世
検事総長、司法大臣、正三位勲一等瑞宝章。

◎孫  岩村 透
東京美術学校教授、文展審査員、美術評論家。

◎孫  林  譲治
文部秘書官、内閣官房長官、副総理大臣、厚生大臣、国務大臣、衆議院議長。
従二位勲一等旭日桐花大綬章。

礫水の遺稿として「礫水遺稿」がある。宿毛小学校前庭の一部は岩村家の邸址で、ここに「岩村礫水翁旧居之碑」が建てられていて今に道行く人々の目を引いている。

岩村礫水翁旧居の碑 岩村礫水書
岩村礫水翁旧居の碑 岩村礫水書
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TEL:0880-63-5496 FAX:0880-63-2618
E-mail:rekishi@city.sukumo.lg.jp
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