岩村通俊は幼名を猪三郎といい、後に弥左衛門、または左内と改め、貫堂と号し、また俳号を素水と称した。宿毛邑主安東家の家臣で、父有助英俊(礫水)母小野氏の長男として、天保11年6月10日宿毛に生れた。兄弟は3人で、兄が通俊、中は林有造、弟が高俊で、兄弟がみな偉大な人物として世に知られている。幼い時、在郷の儒者酒井南嶺に就いて学にはげんだ。少年の頃高知の剣客岡田以蔵が宿毛に来て、土地の青年に剣道の指南をしたが、通俊もまたこれについて学んだ。
万延元年、土佐勤王党の武市瑞山が宿毛に来て同志を糾合したが、この時通俊はこれを訪うて、互に心を打ちわって語り合った結果意気投合して将来をちかい合った。文久元年邑主安東氏理の側役となり、慶応元年には文武頭取、目付役となった。この年に長崎に行って安東家のために小銃若干を買って安東家の軍備の新編制につくした。明治元年4月仕置役となって上阪したが、ついで入京して親兵総取締となった。
その頃、奥羽地方の佐幕派の諸藩はともに勤王軍に反抗し、国内は騒然としていた。この時通俊は高知藩士毛利恭助を介して、容堂公に従軍の許可を乞い、朝命をもって越後口に出征を命ぜられ、弟高俊とともに軍監となって出陣した。通俊は羽越各地に転戦して佐幕軍を破り12月には京都に凱旋し、総督仁和寺宮より賞として錦衣を賜わった。
明治2年、新政府に登用せられ、聴訟司判事に任ぜられた。つづいて函館府権判事開拓判官になった。明治4年、札幌の開拓を命ぜられたが、当時札幌はまったくの未開の原野で、熊が出没して人畜に被害が多く、その開墾は困難を極めたが、通俊は寝食を忘れて鋭意経営し、ようやく新市街形成の基礎を築いた。明治5年開拓大判官に進み、道内全域の開発に心血をそそいだので、北海道全域の面目は大いに改まり、道民からは開拓の父と称えられ今なお崇敬されている。
明治6年7月佐賀県権令に任ぜられたが、当時の佐賀県は廃藩後の土地還付について県民に不服が多く、小作人達は竹槍、むしろ旗をもって官に迫っている状態で、そのため権令は度々更迭したが、この問題の解決は一向に進まず、難治県として評判が高かった。通俊は命を受けると、直ちに同県出身の大蔵卿大隈重信を訪れて、その了解を得て佐賀県におもむいた。就任の日に直ちに地主たちを召集し、相当の代償金を渡して彼等の納得を求め、一挙に土地還付の難問題を解決したので、政府当局はその敏腕に驚いた。通俊はその他の県政も快刀乱麻を断つように、積年の旧弊を改めたので、政府は益々通俊の手腕を認め、翌年1月には工部省出仕を命じて中央に呼びかえされた。通俊は後任の佐賀権令として弟の高俊を推薦したところ、政府はこれをいれて高俊を任命した。高俊もまた兄におとらぬ手腕を持ち県政に精励したので、県民の心服を得て、兄の推挙をはずかしめなかった。
高俊が佐賀権令に任命されたちょうどその折に、前の参議、江藤新平が佐賀の乱をおこしたので、高俊はその鎮撫を命ぜられた。通俊はこれを知って、内務卿大久保利通に従って、佐賀におもむいた。そうして弟の高俊を助けてこの鎮撫にあたり、わずかの日数でこれをしずめて、佐賀の乱を終らすことが出来た。帰京後命によって「西征始末」を書いた。この年7月には議官に任ぜられ、つづいて八月には判事となった。
明けて明治9年には山ロ地方裁判所長に任命された。たまたま10月に前原一誠、奥平謙輔等が、時の政府に反抗して、世にいう萩の乱を起したが、直ちに鎮定されて、皆とらわれた。通俊はこれの裁判に当ったが、先ず判官の筧元忠をして謙輔の取調べを始めさせた。しかし謙輔は至って強情で黙否権を使用し何事も白状しないので取調べは全然はかどらなくて困った。通俊は謙輔にむかって「男子たるものは事を起せば必らず素志を貫徹すべきである。然しながら失敗してとらわれた以上はいさぎよく責を負って処決さるべきである。今に及んでその態度は男子としてまことに恥ずかしい事ではないか。」と条理をつくして説得した。
その夜、品川弥次郎が許されて謙輔に面会をしたところ、この時謙輔は弥次郎に向って、「きょう自分をしらべた判官は誰であるか。まことにこの人こそ真の判官である。立派な方だ。」とのべたということである。
翌日通俊は謙輔の取調べをしたが、謙輔の態度は一変して従順にはきはきと事実をことごとく白状した。次いで前原一誠の取調べをはじめたが「謙輔がすでに事実を白状した。その方は最高責任者である。今に及んでいろいろとべんかいするのは男らしくない云々。」とたしなめると、前原もまた、今はこれまでと、一切を白状したので、裁判はスムーズに進んで刑が決定し、首謀者前原一誠等8人を斬り、余党60余人を懲役に付し、その他2,000余人は放免した。裁判を始めてからこの結審までわずかに7日間で終り、彼は7昼夜ほとんど不眠不休でその裁判を進め、その迅速明快であることは後の世までの語り草となっている。
ついで、明治10年には有名な西南の役が起きた。通俊は当時鹿児島県令(今の県知事)の辞令を受けて赴任することになっていた。出発に当り、次の詩をつくってその決意を示している。
討 賊 千 軍 萬 馬 行 死 生 何 説 此 時 情
御 簾 高 捲 天 顔 美 一 片 円 心 辞 帝 城
通俊は扶桑艦に乗って、海路鹿児島に赴任したが、鹿児島県内は砲煙弾雨がうずまいて、人心はきょうきょうとし、維新前夜の再来を思わせる状態であったが、通俊は従容として事に当り、士民の宣撫や救護に全力をつくし、遂に大乱は鎮定した。反乱の将西郷隆盛はついに城山の露と消えたが、彼は官軍に請うてその屍を受け取り、これをねんごろに浄明寺の域内に葬った。鹿児島県人はこれを徳として、今なお彼に尊崇の誠を捧げている。維新後の内乱といえば、誰しも佐賀の乱、萩の乱、西南の役を挙げるが、奇しくもこの三役のすべてに通俊が関係し、それぞれ最も適当な処置により国家の安泰をかち得たことは、彼の非凡な手腕、才能のしからしむる所であり、その功績はまことに特筆すべきものである。
明治12年、彼は政府に請願して士族授産金10万円を受け取り、これによって各種の殖産事業を興し、戦後のいためられた鹿児島復興の基礎をたてた。そのため士族はもとより一般の人心も全く安定し、県民はひとしく彼の人徳に服した。
やがて元老院議官、会計検査院長等に栄進したが、明治15年に沖縄県令となり、新設の県治のために大いに治績を挙げたので、17年には再び中央に帰任し、司法大輔に昇任した。この時通俊はさきに開拓大判官として赴任していた北海道の地を巡視し、その後10年間の開拓の進捗状態などをつぶさに調査の上、政府に対して速かに北海道庁を置いて、その開拓に全力をつくすべきだと建議した。政府はその議を入れて、明治19年に北海道庁を置いたが、その初代長官として通俊が任命された。沖縄県の初期知事、今また北海道の初代長官と新天地の開拓、建設には彼でなければならない非凡の才能の持主であることをよく政府要人が認めている結果の任命だと考える。赴任後は一意専心これの開発に邁進し、北海道の面目は一新されたが、中でも上川盆地に建設した旭川町は人跡未踏の山村草野に、彼が率先、初めて足を踏み入れて測量し、この地の将来性を見きわめて北都として造りはじめた市街で、かつての札幌と共にその規模の雄大さと、市街の近代性は今でも全国に秀でて居り、その先見の明に心服しないものはない。
明治21年元老院議官、ついでこの年に農商務次官に転じ、22年伊藤内閣に入り、農商務大臣に任ぜられ、いよいよ国政を直接司る彼の真の活躍場所を与えられた。しかしこの頃から彼は健康にすぐれず、激務は無理な身体となったので、しばらくして大臣を辞任し、宮中顧問官に転じ、ついで貴族院議員に勅選せられ、また御料局長を兼ねた。明治25年維新以来の彼の勲功をもって男爵を授けられ華族に列せられた。
その後錦雞間袛侯に補せられたが、病は癒えず、大正4年2月20日、東京小石川区丸山町の自邸においてついに逝去した。享年76。東京谷中墓地に葬られている。彼は子福者で子女合せて12人、皆それぞれ立派な家庭を営なんでいる。長男八作が家を継いだが、八作は北海道開発の彼の志を継ぎ、一生をそれに注いで大いに成績をあげ、彼と共に開拓の恩人として道人より今に尊敬されている。また二男団次郎俊武は海軍中将、五男通世は司法大臣に就任した。
通俊は人となり気宇磊落、細事にこだわらずよく大局に通じ、果断の材で又極めて詩文、俳諧にも長じ幾多の秀作遺品が遺されている。著書には「土佐殉国七士」「貫堂遺稿」がある次の詩は特に人々に親しまれている。
穏 波 千 里 一 孤 舟 好 是 今 年 入 薩 州
到 処 青 山 埋 酔 骨 人 間 為 吏 又 風 流
通俊の偉大な行跡、徳行を慕い、その生前、死後に建立された頌徳碑、記念碑や彼の銅像は全国到るところにずいぶんと多い。そのおもなるものを挙げて彼の遺徳を称える一助としたい。
- ○岩村旧邸内の等身胸像
- 明治42年4月宿毛町有志により礫水翁旧居の碑に並立して通俊、有造、高俊三兄弟の銅像が本山白雪の手によって建立されたが、昭和18年大東亜戦争により応召し、この台石を利用して昭和27年1月代って「追思之碑」が建った。字は五男通世の筆である。
- ○北海道旭川市常盤公園の全身銅像
- 昭和13年11月、上川地方開拓、旭川市建設の偉功を称えて、旭川市が建立(本山白雪作)したが、大東亜戦争により18年7月応召。昭和26年10月、当時金属はまだ不如意であったのでコンクリートによりいち速く原型の通りに復旧した。
- 昭和丁丑8月、過旭川 通 世
先 人 曽 拓 上 川 郷 今 見 炊 煙 起 四 方
百 里 平 原 秋 八 月 近 文 山 下 稲 花 香 - 昭和13年銅像除幕式に 一 木
旭川市長の言を尽したる
式辞に濡るるわが瞼はも
つぎ次に読まるる祝詞亡き父の
みたまもここに泣きて在はさむ - ○北海道札幌市大通公園の全身銅像
- 昭和8年10月北海道開拓の偉功と札幌市街建設をたたえて、丈三米を超す大礼服姿の銅像を巨匠本山白雲の作によって、札幌市が建立したが、昭和18年7月これもまた応召、姿を消したことは時勢とはいえ、まことに残念でならない。
- 札幌銅像除幕式 一 木
仰ぎ見れば秋の朝日にいづかしく
御像の父は立ちたまうなり
うれしさに涙ながるることを知りぬ
うれし涙をおさへつつうれし - 銅像供出壮行式に 一 木
すめらぎのみ召にいそぐ我が父の
御像を送る文月なかばに
風かほる文月十日の朝晴れて
御像の父は征きたまふなり
(漢詩作家通世、和歌詠者一木、共に翁の子息である) - ○北海道旭川市外近文山上記念碑
- 明治18年開拓大判官として彼が始めて上川の地を踏査した記念に立てられたものである。
- ○北海道旭川市常盤公園の歌碑
- 世の中に涼しきものは上川の
雪の上に照る夏の夜の月 素 水 - 銅像に並んで通俊がはじめて上川盆地を踏破調査した時の作歌が、そのまま刻まれて永久に古人の徳をたたえている。
- ○鹿児島市南州神社境内の岩村県令記念碑
- 昭和17年9月鹿児島市民が通俊の徳をたたえて南州翁の墓前にこれを建立した。
- ○姶良市加治木町の岩村県令寓居の碑
- 当時仮県庁のあった市内加治木町の寓居跡に昭和16年建立。
その他萩淮円寺の木彫額或は谷中墓地前の大燈籠等、通俊の徳を慕い、これをたたえた記念物は数限りなく、彼の足跡の地に存在している。通俊逝いて今日すでに50余年。今なおその偉功は輝いている。
岩村通俊 岩村通俊銅像
(北海道)岩村通俊書