宿毛市

林 有造

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林 有造


明治維新以後、わが郷土宿毛からは、数多くの国家有為の人材が出ているが、終始宿毛発展のために力を尽した宿毛第一の人物な、何といっても林有造である。有造がこの世を去って、すでに50年近くなるが、今なお人々の厚い尊敬はかわらず、特に片島では毎年港祭りの行事を盛大に行って、彼の得を称え、彼に感謝の気持ちを捧げている。

彼はただ、宿毛発展にのみ力を尽したのではなく、自由民権史上、不滅の光を放つ板垣退助の片腕として、常に進歩的な思想と強い行動力で、或は一揆を鎮圧し、或は驚天動地の大陰謀を計画して獄舎に入り、また自由民権の闘士として、政治家として、また実業家としても、常に生死を賭けた行動で、波瀾に富んだ生涯を送っている。

林有造は、岩村礫水の二男として、天保13年8月17日宿毛に生れた。兄は岩村通俊弟は岩村高俊である。幼少の時、同郷の林茂次平の養子となり、爾後林姓を名乗っている。

明治元年正月3日、鳥羽伏見で戦が起り、松山、高松両藩が徳川方に加担したことが明らかとなったので、朝廷は両藩討伐の命令を土佐藩に下した。土佐藩は直ちに松山征討軍を出して松山城を降したが、これに先立ち、林は斥候として1月25日松山に乗り込み、軍使の交渉結果や、松山藩の動きなどをつぶさに調べて本藩に報告した。

その後は伊賀陽太郎のお供をして、竹内綱などと共に北越に転戦し功をあげた。

明治3年、板垣退助、後藤象二郎の上京に際して随行の命をうけ、上京の後、藩兵の大隊助教となった。

その年8月、普仏戦争視察の官命が板垣に下った。しかし板垣は、藩の都合で外遊することが出来なかったため、代りに林を推せんした。こうして林は、大山巌、品川弥二郎たちと普仏戦争視察に外遊することとなったのである。

8月28日通弁として中浜万次郎を同伴、横浜を出港、アメリカを経て英国に渡り、更にベルリン、パリーを見学し、戦線を視察して翌4年4月7日、無事に横浜港に帰着した。

5月15日には高知藩小参事に任命され、勧業局に出仕することになった。本来、藩兵第二大隊の助教だったし、普仏戦争視察直後のことではあるし、陸軍省からの呼び声もあったが、権大参事片岡健吉が外遊するために藩庁に人材がないとの理由で、板垣が強いて林を藩庁に送り込んだものである。6月には権大参事に栄進して兵局を総轄し、9月には高知県大参事に昇任し、11月には新県制によって改めて参事(後の知事)に任官した。こうして彼は年30にして高知県の初代長官となったのである。

明治4年の暮、土佐、吾川、高岡の3郡の山間地帯を基盤として「油取り騒動」とよばれる一揆が起こった。徴兵令施行準備のため、戸毎に年令を調べ、家屋に番号をつけたのと、吸江病院に雇われていた外人医師が、寝台の上で治療しているのを見て、外国人が少年少女の油をしぼりとるのだという流言が流れて大恐慌となり、明治の新政をきらって、山内の旧藩制にかえそうとした騒動であった。

この報が中央に通知されると、当時東京に出張中の高知県参事林有造は、直ちにこれを鎮撫するために土佐に帰った。東京出発にあたり、板垣は、土佐から東京に出ている親兵を連れて帰るようにすすめたけれど、林はこれをことわって単身で帰ってきた。事態の重大さに恐慌をおこしていた県庁では、林が一兵も連れずに帰ったのを不満として
「どうして鎮圧するつもりか。」と問うと、林は
「別によい考えとてないが、説諭してきかぬ場合は、村々の首領分を捕えて、処断する外はあるまい。」と答えてその方針でのぞむことになった。この時、県の大属に原伝平という人がおり、兵学者で聴訟課長をしていた。そして、佐川の出張先から帰っての報告で
「兵を用いなくては、とても鎮圧はできない。」といい張ってきかず、そのため林は直ちに原と交代させて、大谷小伝次を佐川に出張させることにし、
「兵を用いるのは、暴徒横行して人を殺し、家を焚くに至ってはじめてこれを行うべきだ。先づ彼等のうち主謀者数名を捕え、他の一般民衆には累を及ぼさないことを知らせ、主謀者を即決処分して威を示せ。」と命じた。

大谷は越知に乗り込んで、各村の首領株6名を捕え、先ず野老山の兼太郎を斬って梟首にかけたところ、越知、野老山、名野川の暴徒が押しよせて発砲し、首を奪ってしまった。そのため他の4人(1人は逃亡)を連れて佐川に引き上げ、使を県庁にとばしてこのことを報告した。この日は明治5年正月6日のことであった。この報告をうけた林は、翌7日単騎で佐川に行き
「4人の首を越知川原で斬ったならば、直ちに村々に入りこんで首魁の外は咎めのないことを知らせよ。若し、4人を斬った後、人々が騒ぐなら、自分が自ら彼等を説得し、きかなければその場で殺されるだけだ。」と強い決意のもとに、4人を越知川原に引き出して首を斬り、林は一々これを実検した。

4人を斬った時は、銃声はたえまなく聞え、形勢は不穏なものであったが、やがて平穏となって、一揆もおさまり、林はその翌朝、無事に県庁に帰ることができた。

その当時、台湾へ漂流した日本漁民が、台湾人に殺害されるという事件が起り、清国政府に抗議するため、特命全権公使として、支那に渡ろうとしている副島種臣に同行をすすめられた林は、明治5年11月17日、外務省出仕になり、翌6年には支那に渡って交渉にあたるかたわら、大陸の事情を視察した。

当時、副島や西郷は征韓の議を唱えていた。副島外務卿の意見は、露国の南進を防ぐために朝鮮を我が国の保護のもとにおき、台湾も我が国の勢力範囲内におくということであった。この考えに西郷、板垣、後藤、江藤等が賛成し、ほぼ廟議は征韓論にまとまった。しかし、欧米視察から帰った岩倉、大久保、木戸によって征韓論がくつがえされ、そのため、西郷等の征韓派は共に職を辞して野に下った。板垣にしたがって片岡健吉、谷重喜、山地元治、北村重頼以下土佐出身の将校達も、ぞくぞくと辞職した。板垣と深い関係のある林が辞職したのはもちろんであった。

これら辞職した土佐出身の将校達は、山内容堂の墓前に参集し、いざという場合には共に協議し、共に進退することを誓いあい、南海義社を結成した。

明治7年1月、林は、板垣の命をうけて鹿児島に西郷を訪い、その心底をたたくことになった。1月13日、江藤新平とも一緒になって横浜を出航し、海路神戸につき更に大阪から汽船光運丸に便乗して長崎に直航、茂木浦から和船で鹿児島におもむき篠原国幹の邸で西郷に面会した。そして林は
「今日の形勢はもはや1日も猶予することはできない。そのため自分等は兵を土佐に挙げて直ちに大阪鎮台をつき、京都に攻め上ろうと思うのである。あなたは鹿児島の兵を率いて熊本城を落し、一方兵を分って馬関に上陸し、一路中国に攻め上られたならば、天下の志士はごう然としてあなたに集る。一挙にして天下を制することができるであろう。」と論じたのであるが、西郷はこれには黙して答えず、ややしばらくして口を開いて
「木戸は私を殺そうと思っている、どうしても政府は薩摩をやっつけようと思っている。土佐と薩摩が一緒になって事を起す時には、政府はそれができない。で、あなたは板垣に相談をして西郷を縛って下され。」といった。土佐と薩摩が一緒になっては政府は鹿児島征伐をしないので、板垣にすすめて木戸に鹿児島征伐をさせてくれろという意味である。林は不審に思って
「あなたをしばるのは易いことではあるが、それから先はどうなるのであるか。」
と尋ねたところ、西郷は胸のあたりを指さしながら
「そこまでくればその後のことは私の方寸の中にごわす。」
「あなたは、何でも薩摩の一手を以ってすれば天下の事為らざるはなしというお考えのようであるが、それはあまりにも自信に過ぎているといわねばならぬ。およそ兵家のことは驕慢をいましむるにある。薩摩一藩を以って天下を動かすに足るという目信は結構であるが、更に同志があるならばこれと結び、東西相応じて策の万全を期するのが一番よい。優柔不断の政に対して、板垣をはじめ土佐人士は袂を払って起つの気慨を有している。この際はよろしく薩土連合の勢力を以って政府に当るにしくはあるまい。」
と熱心に説いた。しかし西郷はついに明答を与えなかった。

西郷の考えでは、木戸は薩摩を攻めようとする考えがあるけれども、これを決行し得ないのは、一に土佐の応援をおそれているからである。でこの際、土佐が局外中立の意向を示したならば、木戸等は必ず薩摩征伐を断行するであろう。その時は西郷の方寸によって事を決しようというにあったらしい。いろいろと話した結果、薩土連合の契約は成り立たなかったけれど、万一の場合、西郷は断然兵を挙げる意志のあることだけは確め得たのであった。

それから佐賀にまわって江藤新平に会った。江藤は
「佐賀の形勢は、憂国党が今にも旗を挙げそうな形勢である。余の力を以てしても、これを制することはむづかしい。よくこの形勢を察知して、土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい。」
といった。林は
「文筆においてはあなたに及ばないが、用兵の術においてはあなたに負けない。あなたに一言いいたいのは、挙兵の時期である。これを誤ると大変なことになる。佐賀や薩摩の一角で小数の志士が兵を挙げても、熊本、大阪の2城をとらない限り事は成就しない。私は西郷を説いたけれど、西郷は私の意見を容れてくれなかった。薩摩と連絡することは不可能だけれど、せめて事をあげる時期だけは三方一緒にしたいものである。土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重し、憂国党の青年をおさえて、軽挙妄動することのないように注意されたい。私の弟の高俊が兵を率いて当地に来たということだが、もし本当なら弟は用兵の術に秀れているから、深く留意して青年達をおさえてほしい。」と忠告した。しかしこの忠告は聞き入れられず、佐賀は遂に兵をあげたのであった。林はその帰路、神戸に上陸した時に江藤の挙兵を聞き、東京に着いた時はすでにそれが敗戦に終ったことを聞いたのであった。

林は西郷訪間のことを板垣に復命の後、7年の3月8日土佐に帰った。

江藤は兵を挙げたが破れ、薩摩に逃れたが、かくまってくれなかったので、一行9名で宇和島に上陸し、土佐に逃れてきた。江藤は伊屋(中村市双海)から船で高知に入り、片岡健吉の邸で片岡並びに林とあった。林は暗に自首をすすめたが、江藤は甲浦までのがれ、ついにそこで縛についたのであった。

この年、林は、板垣、片岡達と共に、高知に立志社を創立し、後進の指導をしながら、やがて次への飛躍の時期を待つことになった。

明治10年、西南の風雲は急を告げ、ついに薩摩の私学校の生徒が火薬庫を攻撃し破竹の勢を以って北進して熊本城を包囲した。

2月10日、西郷起てりの確報を得たとき、林は手を打って叫んだ。

「雁の味がするぞ。」
雁汁は絶好の風味、会心の意を諷したものである。

この薩軍の挙兵に呼応して、土佐でも挙兵をしようと、板垣邸に集って協議をした。そのほとんどは、板垣と共に辞職した将校連中であった。

林は挙兵派の中心的人物で、さきに払い下げを受けていた白髪山の大森林を、政府に売り、その金でドイツのスナイドル銃3,000挺を、上海のポルトガル人ローザーより買う任務を帯びて東西に奔走した。このドイツ銃が入手次第、兵を挙げようというのである。

ドイツ銃購入の担当者は、岡本健三郎と中村貫一であり、岡本は竹内綱とはかってドイツ銃800挺を先ず購入した。

大江卓は、陸奥宗光と謀って、土佐挙兵の際、政体を改革するために、要路の大官を暗殺する計画をたて、岩神昂、川村矯一郎を同志に引き入れ、その目的のために京阪間を奔走していた。

挙兵派の中心である林が計画した土佐軍の出陣の方向は、2方面であった。1つは大阪城を攻めとってこれを根拠地とし、1つは松山城を攻撃して中国筋に進み、薩軍と合するというのであった。当時官軍の兵隊は、ほとんど薩軍討伐に向い、大阪城にはわずかに1、2個中隊、松山城にもわずかに2、3個中隊の兵しかいないことがわかっていた。

大阪城攻撃は、元陸軍大佐、大阪鎮台司令長官であった谷重喜を総大将とし、林は各地の壮士並びに旧近衛兵士等5、600名の精兵を率いてこれにしたがい、山田平左衛門(元迅衝隊長)、池田応助(元歩兵少佐)、島地正存(元砲兵大尉)、広瀬為興(元陸士生徒)の4氏はそれぞれ部下を統率して泉州堺に上陸して、大阪城に夜襲をかけてこれを奪略し、紀州兵の応援を得て、中国、四国、北陸方面への電線を切断して官軍との連絡を断ち、薩軍並びに加賀、因州、備前等に檄をとばし、更に大阪警察署を襲い、大江卓等は、この間政府の要路者を暗殺するという計画であった。

一方、松山城攻撃は、片岡健吉(元海軍中佐)がこれを統率し、岩崎長明(元砲兵少佐)平尾喜寿(元歩兵大尉)金子宅利(元歩兵大尉)小谷正元(元歩兵大尉)行宗貞義(元砲兵大尉)水野重規(元歩兵大尉)等が部隊長となって旧将兵を指揮し、その他、古勤王党と称する東西7郡に散在する憂国の志士、並びに各地の壮士を合わせておよそ1,000人内外をもって松山城に向う計画であった。

古勤王党の内、高知以東の部隊を統率する首領は、大石弥太郎、森新太郎、池知退蔵、岡甫助等で、高知以西すなわち高岡、幡多の旧勤王党をはじめ壮士およそ3、400人は桑原平八、佐田家親、富崎頼太郎、宮川小作、石原盛俊等が率いて宇和島を経て松山城に進撃する計画であった。

林はこの挙兵派の急先鋒で、銃器購入に全力を尽したが、なかなか思うように進まなかった。

一方、立志社内では、言論によって政府を攻撃しようとの意見が強くなり、板垣、片岡などは建白書を提出した。立志社の動きに周到な警戒をしていた政府は、高知にある銃器弾薬を、10年6月6日、汽船に積んで大阪に引き上げた。

林は、ドイツ銃が間に合わなければ、在来の火縄銃ででも、直ちに決行しなければ機を失すると説いたがなかなか入れられず、ついに銃器弾薬購入後に挙兵することとした。

10年6月14日、立志社の藤好静と村松政克が捕縛せられた。この2人はかつて薩軍の陣営に使したことがあるので、政府が特に目をつけていたのである。その後、都城の陥落の際、官軍は薩軍の陣営から1通の書翰を手に入れたが、それは、桐野利秋が、土佐派の活動について、各方面の薩軍の将に報道した書類で、これによって、林等の陰謀が露顕する端緒は開け、岩神昂、川村矯一郎は6月25日に大阪で拘引された。

林有造は、7月20日、高知を出発し、23日大阪に着き、8月2日には東京に行き、すでに上京して金策をしていた中村貫一、大江卓、小野義真等を訪問した。その頃ようやく白髪山の代金15万円は、新公債証書で下付されたので、これを正金9万円で三菱会社に売却する約束ができており、すでにその一部はローザーに手付金として手渡していた。このような状況のもとに林は、銃器引き取りを促進させるため8日午前10時を期して、竹内綱の屋敷でローザーと会見しようと、人力車で宿を出たとたん、待ち伏せしていた警官によって捕えられ、そのまま警視庁に連行されて留置された。

やがてこの陰謀に加わった立志社の連中は殆んど逮捕され、東京臨時裁判所に於て玉乃正履、岩谷龍一の審問を受けることとなったのである。

林は、大江にはかって、累を板垣、後藤に及ぼさないよう、自分達が首謀者であると言いきった。判事玉乃正履は、
「このような大事を企てるには、必ず首領が居るはずだ。お前たちは、板垣や後藤の先輩をおして首領とし、その指揮のもとにこの企てをしたのであろう。」と問うと、林は大声で怒って、
「板垣、後藤、何者ぞ。これみな維新の風雲に際会して今日に至っただけではないか。有造不肖といえども、若し大阪城をつき、天下幸に之に応じ、この企てが成功していたならば、貴公達は一体私をどう見るであろうか。有造の眼中には板垣もなく後藤もない。貴公は人を見る眼が浅いぞ。」

このためか遂に板垣、後藤は1回の取り調べも受けず、何等の罪にもならなかった。しかし、林は禁獄10年の刑を言い渡され、大江卓と共に岩手の監獄に送られた。

      林有造への判決文

 其方儀、明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時二際シ、兵ヲ挙ケ、政府ヲ覆セント企テ、明治十年 二月中、岡本健三郎二依託シ、外国商二談シ、小銃八百挺並二附属弾薬ヲ何時ニテモ取入ル様 差押置カシメ、同年四月中村貫一二依託シ、外国商二談シ、小銃三千挺並二弾薬ヲ前同様差押 置カシメ、其手附トシテ貫一ヲシテ不レ少サル金額ヲ外国商二渡サシメ、加之同年岩神昂、川 村矯一郎力重臣暗殺ノ企二与セシ科二依リ、除族ノ上、禁獄終身二処スルヘキ処、軽滅スヘキ 事情アルヲ以テ、除族ノ上禁獄十年申付候事

      明治十一年八月二十日                  大  審  院

林と大江は、11年9月19日に岩手の監獄に着いた。秋の半ばとはいうものの、北国の空は寒かった。26日には岩手山は早くも白雪をいただいた。

若手県知事、島維精は、彼等に対して手篤い厚遇を与え、獄舎内では8畳の間が与えられて、小使として懲役人1人をつけてくれた。書物の出し入れは自由で、塀の内には庭もあり、監獄生活とはいうものの、昔の蟄居と同じようなものであった。だから手紙のやりとりもかなり大目に見てくれて自由であった。

武士の町であった宿毛は、維新以後年々衰微していった。宿毛の有志達は、何とかして宿毛発展の方途をさぐろうと、獄中の林に手紙でもって宿毛振興策を問うてきた。林は熟慮の結果、次の3策を得ることができた。

  1. 宿毛と片島とを連絡させ、宿毛と片島とを連絡させ、鷺州に新田50町歩を造る。これによって50戸が耕作でき、200人が宿毛で物品を購入するようになる。
  2. 片島に汽船を航行させ運輸の便をよくさせる。これによって宿毛に物資を集め、商業を発展させる。
  3. 東に道路をつけ、有岡駅まで車を通行させ交通の便をよくさせる。

この3策を実行すれば宿毛は伊賀氏居住の時よりも発展することに間違いない。10年の刑の4分の3がすめば仮出獄が許され、残る刑期の2年半は宿毛に居住するようになろうから、その時宿毛のために努力すると返信したのであった。

明治17年、仮出獄を許された林は、直ちに宿毛に帰り、坂本村爾、菊地清三郎、杉本治三郎、岡添寅蔵、平井友蔵などを集めて3策を詳しく説明した。

新田築造については、多くの資金が入用なので、はじめは八幡浜や川之江の財産家に出資を依頼することにして、関係町村の和田、坂の下、宿毛、錦、小深浦、大深浦、大島の諸村に話してその協力を得ることにした。しかし、時の県令田辺良顕から、愛媛県人に築造させるよりも、経費1万5,000円の内、1万円を何とか工面すれば、5,000円は勧業金の世話をするから、宿毛人の手で行えとの指示があったたため計面を変更して指示通りとし、明治19年1月には新田築造の許可を受け、直ちに工事を開始して、20年4月に潮止めを行なった。22年には林は出資者に金を返し、新田を林の所有とした。それが現在の林新田である。

一方、片島に汽船を航行させる計画は、なかなか思うようにはならなかったが、明治20年、ついに大阪商船会社に依頼して、50トンの汽船を買い、宿毛丸と名付けて、宿毛汽船会社を興し、宿毛-高知間を通わせた。だが、まもなく宿毛丸は沈没し、会社は大損をしたので解散した。しかし、これがもとになって片島港は次第に発展し、現在のような大繁栄を来したのであった。明治20年潮止めをして、片島と宿毛が陸続きになった当時には、片島には僅かに3軒の塩小屋があるだけで、しかもその小屋は、戸口はむしろをつり、壁は柴を立てかけたものであったという。以来80年、戸数600に及ぶ現在の片島の繁栄は、全く林のおかげであり、毎年港祭りを盛大に行って彼に感謝の気持をささげているのも、まことに当然のことである。

東の道路も、市山峠を切り下げて車が通えるようにした。その後この道は県道に編入され、更に現在は国道56号線となって交通の便はますますよくなった。

こうして、獄中で考えた宿毛発展の方策は、林の帰郷後着々とその実効をあげ、宿毛発展の大きな礎となったのである。その後も、電信をひくのや、登記所を建てるのにも大いに力になっている。

林は仮出獄を許されてから、政治運動にも力を入れた。明治20年条約改正問題が起るとこれに反対して建白書を出し、そのため保安条例によって東京退去を命ぜられた。この時、幸徳秋水は林の書生をしていたが、東京退去によって林と別れ、別の途を歩むようになったのである。

明治23年、帝国議会が開設されるようになり、第1回の衆議院議員選挙が行なわれた。当時の選挙法は、人□12万入につき議員1名の標準で、郡をもって選挙区画の基準とし、高知県では第1区(土佐、長岡)から竹内納、第2区(吾川、高岡、幡多)から片岡健吉と林有造、第3区(香美、安芸)から植木枝盛が選出された。これら4名はいずれも自由党に属した。

翌24年の第2国会で、白由党など野党は政府の軍艦建造費、製鋼所設立費の予算を全面的に否決し、政府攻撃を強化したので議会はついに解散となり、翌25年2月15日を期して第2回の総選挙が行なわれることになった。

政府は、内務大臣品川弥二郎をもって大肌不敵な選挙干渉を企図し大干渉を行なったので紛争が各地に発生した。中でも自由党の金城湯池とたのむ高知県下では、その干渉が最も露骨を極め、自由党と政府与党の国民党との抗争はついに流血の惨事をまねくに至った。

その頃土佐には、自由党と対立する1つの政社があった。古勤王組という保守党で、各郡に散在する旧郷士を主要勢力として、土佐国民党と称していた。これらの人々は、一種の国家主義を信奉し、品川内相らの思想と一脈通ずるものがあり、自由党とは犬猿の間柄であった。

時の高知県知事は、鹿児島人の調所広丈ずしょひろたけで警察部長は古垣兼成であった。第2区では白由党から片岡健吉と林有造、国民党から片岡直温と安岡雄吉が立候補したので、その結果が最も重視せられ、高岡郡長には、鹿児島から呼び寄せた警部、中摩速衛を抜てきした。東西各地の警察官は、公然と有権者に向って国民党候補者への投票を呼びかけ、これに反対する者には

「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙するのは不敬極まることだ」としかり、これに抗弁すれば直ちに暴漢が乱入して来て警官の命令だと称して殴打狼籍、半殺しの目にあわされたものである。しかも警官は被害者を留置し、下手人を釈放するのをつねとした。

いよいよ選挙期日がせまると警官は制服を脱いで暴漢の中に加わり、時にはまた制服をつけて警察権をふりまわした。このように警察と一体となった国民党の乱暴に対して、自由党壮士もこれに対抗したので各地で大騒動が起った。

選挙の前日の2月14日には中角に国民党が来襲し、更に宿毛へ大勢で押しかけてくるとの報があった。宿毛では総動員でこれをむかえ撃つ準備をした。明けて15日の午前1時頃、約1,000名の国民党の壮士が銃や刀を持ち警部2名、巡査10名を先頭にして市山峠を越え和田にやって来た。宿毛を襲撃して林の首をとろうというのである。あやうく宿毛勢と決戦となろうとしたが、憲兵の努力によって、やっと決戦は回避することができた。がしかしこの混乱の時、和田村役掲に入って来た郡書記、細川速水は、役場の庭で自由党の壮士のために切り殺されるという事件も起った。

このような選挙大千渉の結果、林有造と片岡健吉は落選し、国民党の片岡直温と安岡雄吉が当選した。しかし各方面からの訴えがあり、それによって名古屋控訴院は、翌年4月、片岡百温と安岡雄吉両名の当選無効を宣告し、林有造と片岡健吉は晴れて再び議政壇上の人となることが出来たのである。

明治31年、自由党と、改進党を改めた進歩党とが合同して憲政党を組織した。林はその総務委員に選ばれ、ついで大隈、板垣連合内閣ができると逓信大臣に任ぜられた。34年、伊藤博文が立憲政友会を組織すると、憲政党を解党して、その幹部は政友会に入り、林はその総務委員となった。この憲政党解党を、自由党の栄誉を忘れ、藩閥政権に身売りするものだと論じて反対する者もあったが、中でも幸徳秋水は「自由党を祭る文」を発表してその終末に血涙をそそいだのであった。

やがて、伊藤博文が内閣を組織すると、林は農商務大臣となり、36年には、千葉県より立候補して衆議院議員となり、ついで片岡健吉と共に政友会を脱して無所属議員となった。こうして衆議院議員に前後8回当選し、その間2回大臣を務め、国政のため尽力したが、41年以来政界を去って郷里宿毛に帰り、自適の生活を送ったのである。しかし、いつも頭をはなれることが出来なかったのは、宿毛の発展ということであった。

たまたま藤田昌世が、愛媛県平城で真珠の養殖事業をはじめたが、資金面で困り、大正2年、かねて親交のあった宿毛の伊賀氏広を頼って来た。そして伊賀氏の世話で、林を社長とする会社を設立することとなった。この真珠というのは、現在行なわれているような真円の真珠養殖で、やっと西川藤吉や見瀬辰平らが明治末年にその技法を発明し、実験的に成功したのであった。藤田昌世は西川の弟子で、その西川式技法で真珠養殖の企業を行なおうとしたのである。

藤田は林に逢って、養養真珠の理論、その将来性を説明したところ、林は直ちに将来性を見とおして快諾した。藤田が
「こんなちっぽけな事業に、先生をひっぱり出して、申し訳ありません」
というと、
「自分は、宿毛の人々のために、草履をとろうと思って政界を退いて帰ってきたのであろ。事業の大小、形式は問題でない。」
と答えたという。

こうして、大正3年1月15日、林を社長、北村熊吾、和田台平、高橋嘉吉、長滝嘉三郎を取締役とし、藤田昌世が技師長となって資本金12万円の予土水産株式会社が設立され、宿毛湾の丸島を根拠地として、その周囲の海面で真円真珠の養殖をはじめたのであった。

大正5年には多量の良質真珠が浜揚げされ、11月上句、171個の真珠が、1匁216円の高値で取り引きされた。これは全く企業として、世界最初の真円真珠養殖の成功であった。(御木本幸吉の、貝殻にくっついたコブ付真珠の養殖はこれより先であるが、真円真珠の養殖は宿毛より後である)こうして大正6年、7年、8年と年々成功し、大正9年には、社名も予土真珠株式会社と改め、大増資をして資本金も61万円とした。林は銀行から多額の金を借り、事業の大拡張を行なったが、その時突如、大正9年8月の、あの前古未曽有の大洪水に見舞われ、いかだはすべて流失し、海底は泥海と化して養殖不可能となってしまった。

大借金をして、事業の拡張をした直後の被害、ついに漁場は閉鎖も等しい状態となり、宿毛で技術を身につけた技師たちは、清水、浦の内、アゴ湾等に4散して各地に養殖技法を伝えたのである。

大正9年のあの大洪水がなく、宿毛の養殖真珠事業が、そのまま順調に発展していたならば一体どうなっていたであろうか。現在の真珠界の地図は完全にぬりかえられ、おそらく林王国が出現していたであろうと思われる。更に「宿毛のために草履をとろう」とまでいわれた林のことである。その利益で宿毛に各種の事業を起し、宿毛発展のために大いに力を尽してくれたことであろう。林は、こと志と違い、大借金を背負って、一生金に苦労をしたが、まことに惜しみてもあまりあるのが大正9年の大洪水であったのである。

宿毛こそ、世界に誇るべき、養殖真珠発祥の地であるが、途中で中断されたため、御木本パールの名におされ、世界はもちろん、国内、県内に於ても、ほとんどこの事実が知られていないのは、まことに残念である。

大正10年12月29日、林は静かにその生涯を閉じた。年80才であった。危篤の報が天聴に達すると、直ちに従3位に叙せられ、葬儀に際しては祭資を賜わった。葬儀は宿毛町はじめての町葬で行なわれ、遺骸は宿毛を眼下に見下ろせる東福寺山に葬られた。

林は号を梅溪という。

林 有造 林邸
林 有造 林邸
p131-01.jpg 林新田を望む
林有造書 林新田を望む
林有造の墓  
林有造の墓  
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