宿毛市

中村 重遠

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中村 重遠


維新の動乱を経て、大砲、小銃その他の兵器は非常に発達した。それにともなって、日本各地にある旧藩の城は、もはや戦闘の役には立たず、全く無用のものと思われだした。

明治6年のはじめ、太政官では、全国144の城に廃棄を布達した。そしてほとんどの城が破壊され、わずかに39の城が残ったに過ぎない。しかし、これらの城も修理をしないため建物の腐朽は次第にひどくなり、名古屋城では、いたみのひどい櫓などはすでに取りこわしにかかり、姫路城も市内の神戸某がわずか23円50銭で落札したような事態であった。

名古屋城は、もと徳川家康がその子義直の居城として、慶長15年、北国、西国の豊臣恩顧の諸侯に築城させたものである。中でも天守は加藤清正が特に請うて独力で営んだもので、その金の鯱は、世人が尾張名古屋は城で持つとうたう程昔から特に有名であった。

姫路城は、織田信長の命を受けた秀吉が、中国経営の本拠として、天正8年この地に城を築き、その後池田輝政がこの城に入って完成したもので、天下の名城白鷺城とも呼ばれ、これまた特に有名な城であった。

しかし、この2つの名城も、まさに取りこわし寸前の運命にあった時、陸軍省第4局長代理の中村進一郎重遠大佐は、芸術的にもまた築城学的にも、極めて価値の高いこの名城を、何としても後世に残さなければならないと思い、陸軍卿山縣有朋にこの旨をしたためた建白書を提出した。

その結果、明治12年1月29日、名古屋城と姫路城は、陸軍の費用で修理することに決定し、危うく廃棄はまぬがれて今日に至ったものである。

こうして名古屋城は破壊をまぬがれ、天下にその偉容をほこっていたが、今次大戦で惜しくも焼失し、現在は再建されたコンクリート建築が昔の面影をしのばせている。また幸いにも戦災をまぬがれた姫路城はその後解体修理されて昔ながらの偉容を今に伝えている。

この国宝姫路城が、今日現存するのは、全く中村進一郎のおかげであり、姫路城には、この間の事情を記した彼の大記念碑が建てられ、彼の功績を永久に伝えている。

中村は通称を進一郎、名を重遠という。天保11年12月2日、小野弥源次の子として、宿毛に生まれ、やがて同郷の中村儀平の養子となった。

宿毛の第10代邑主安東氏固は、意を教育にそそぎ、天保2年講授館を起し、三宅大蔵を議授役として宿毛の士卒に経書や歴史を教えさせ、嘉永2年三宅の死後は、代って上村修蔵を講授役としたので、中村は多感な少年時代、これら三宅・上村の両氏について熱心に漢学を修めた。

この講授館は、文久2年には校名を文館と改め、講授役に上村修蔵、助教授に酒井三治、句読役に立田者江・中村進一郎・倉田五十馬の3名が任命されている。当時中村はまだ23才の青年であり、これによっても、中村が非凡の才であったことがうかがわれる。後に、文武兼備の典型的な軍人として成長したが、文では若くしてすでに子弟を教える立場に立っていたものであった。

やがて、この文館は、日新館と名称を変更し、漢学だけでなく、数学、測量、武術(兵学、弓術、馬術、槍術、砲術、柔術、水泳)も教えた。維新後宿毛からあまたの人材が輩出したが、それは、これら文館、日新館が大きな力となったのである。

慶応4年正月、鳥羽伏見の戦が起ると、松山藩、高松藩討伐の朝命が土佐に下った。中村は、同じ宿毛の近藤謙二郎などと、高知の本藩に従って、松山城攻略に参加し、1月27日にこれを降すと、そのまま東征の軍に従って江戸に出、安塚や今市の戦にも参加した。やがて中村は戦況報告のために高知に帰り、そして、主君の宿毛邑主安東(伊賀)氏理に宿毛兵の出兵を説いたが聞き入れてくれなかった。そのうちに戦いは北陸や東北地方に広がり、氏理の嫡子陽太郎の出陣が、やっと山内容堂に認められ、ようやく宿毛兵の出陣が決まった。

中村はその編制の責任者となって、宿毛兵だけで機勢隊を編制した。隊員総数111名で、その中には後世名をなした小野梓なども加わっている。

7月14日に宿毛を出発、高知で本藩の兵と合し、大阪、京都を経て、北陸に進んだ。戦いはすでにほとんど終っており、やっと庄内攻撃に参加した程度であったが、羽越国境の鼡関では大激戦が展開され、一時は後退を余儀なくされたが、やがて関川、雷村を攻め、庄内藩主の降伏でやっと戦いは終った。この戦いで、機勢隊は采牌1、打刀3、短刀2、小銃3、旗1、金2分の品々をぶんどった。10月5日に庄内を出発して帰路につき、25日高知着、宿毛には12月5日に帰陣した。中村はこの戦いの功により5人扶持を賜った。

新政府が出来ると彼はこれに仕え明治4年に兵部省7等出仕に任ぜられ、ついで陸軍少佐、中佐と進級した。

明治6年たまたま征韓論が起り、廟堂は真二つに割れてしまった。中村は、陸奥宗光、中島信行、大江卓、岩村高俊、岡田重俊、堤諠などとともに、武人の勢力が増大することを恐れて征韓論に反対した。そうしてさきに欧米視察に行っていた木戸孝允が帰朝したので、これを説きさらに岩倉が帰朝すると木戸は大久保、岩倉とはかって征韓論に反対の立場をとった。

こうして征韓論は破れ、西郷、板垣、後藤、江藤、副島たちは野に下り、土佐出身の将兵はほとんど板垣と行動をともにして、土佐に帰ってしまった。

しかし中村は征韓論反対の急先鋒であったため、そのまま陸軍にとどまり、明治6年12月には、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、熊本鎮台司令長官、土佐窪川出身の谷干城の部下となった。

そうして翌明治7年2月、江藤新平が佐賀の乱を起こすと中村は命により兵を率いて佐賀におもむき、たちどころにこれを平定した。

明治10年西南の役が起ると、別動第2旅団の参謀となり、肥後に薩摩にと奮戦、ついに西郷隆盛は城山の露と消えて九州は平定した。この功によって勲四等に叙せられ、年金180円を賜わっている。こえて11年には陸軍大佐に任ぜられ従五位に叙せられた。

中村は、性格が極めて剛毅で信義を重んじ、またよく経史に通じて文武兼備の武人として、その将来を大いに嘱望されていたが、明治17年2月22日、病気のため東京の家で45才の若さで世を去った。遺骸は盛大な葬送により東京青山墓地におさめられた。そしてその墓碑のかたわらには巨大な記念碑が建てられていて山縣元帥の「金鉄其腸」の篆額と、谷干城撰の中村をたたえる碑文が刻まれていて今なお訪れる人の目に中村の偉大さを教えている。

かつて西郷隆盛でさえ、中村の胆略には一目おいたということによっても、彼の人物がいかにすぐれていたかがうかがわれるであろう。

中村進一郎重遠 姫路城にある 中村進一郎墓
中村進一郎重遠 姫路城にある
中村重遠顕彰碑
中村進一郎墓
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