宿毛市

伊賀 陽太郎

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伊賀 陽太郎


伊賀家はもと稲葉姓を名乗っていたが、光就に至って、はじめて伊賀を名乗り、美濃の国(岐阜県)の本巣郡に在る北方城に住んでいた。光就の曽孫に当る郷氏は、山内一豊の姉通を妻とし、これより安東姓を名乗り始めた。その子可氏は叔父山内一豊に仕え、関ケ原の戦いには一豊に従って戦功を立てている。一豊が慶長5年土佐に入国、24万石の領主となるにおよび、彼は宿毛の地に6,200石を賜ってこれに移った。彼は宿毛につくと、松田城(今の石槌神社)を修築して居をかまえ、後には、宿毛郷7,000石の邑主として爾来明治維新まで12代、260余年間、土佐西辺の鎮めとして続いて来た由緒ある家柄である。山内氏治下では山内姓を許されていたが、明治維新の際に旧姓の伊賀に改めて現代に及んでいる。

家系図

伊賀家12代邑主氏成は伊賀陽太郎といい、11代邑主氏理の嫡子で、山内容堂の甥であり、嘉永4年に生まれている。幼少の頃から学を志し、儒臣上村修蔵、酒井三治に就いて和漢の学を修め、慶応4年には父氏理は彼を京都に遊学させ、更に学門のうん蓄を極めさせようとした。この時竹内綱が補導役として彼に従い、他に近習として林有造や石原少馬、お付医師として羽田文友たちが従って本格的な勉学の態勢をとった。

しかし時は正に維新前夜のことであり、かねて京に出ていた岩村通俊は1日陽太郎にむかって、

「今は正に維新前夜である。のんきに読書などで時を過ごしている時ではない。みずから戦場に臨まれて王事に力をつくさなければならない時節だ。」と申した所、陽太郎は手を打って喜こび、

「それこそ我が意を得た言葉だ。」とすぐにも東征の軍に身を投じようとしたが補佐役の竹内綱は、邑主氏理の許可がないからと制止するので、陽太郎は致し方なく一策を案じて、ひそかに側役の毛利恭輔に藩主山内容堂を説かせて、この許可を先にとった。こうして藩命を受けて、補佐役竹内綱、近習林有造等側近を率いて勇躍、北陸の山野に出陣の途についた。

彼は一箇中隊の兵をひきいて転戦奮闘し、10月に剴旋した。やがて国内は平定して明治維新の大業が成ると、彼は知識を世界から求める必要を痛感し、自費をもって直ちにイギリスに留学を志した。明治の初年、洋行熱は極めて盛んであったが、その多くはいわゆるはくをつけるためであり、極めて短い日程で彼の地を一巡するものが多く、せいぜい1、2年の期間で行なうもののみであったが陽太郎は10年の長きにわたって、イギリスにとどまり、政治、経済の勉強を徹底的に行なった。そうして新知識を十分に身につけて帰朝すると、一先ず農商務省に席を置いたが、ごく短期間でここを退職した。

彼は新日本の建設は先ず教育から、の信念に燃えていたので、官吏の道を捨てて高等商業学校の教諭となったのである。そうして長年かかって得た知識才能をこの道で十二分に活用しようと喜び勇んで職に就いたが、天は彼にくみせず、いくばくもせず病を得て退職のやむ無きに至った。彼は定めし無念の涙を止どめることが出来なかったであろう。その後は宿毛に帰って静養しながら、塾を開いて修めた知識で青年の教化に当っていたが、明治30年5月3日、47才をもって逝去した。法名は供得院といい、今、東福寺東山墓地に静かに眠っている。彼には嗣子が無かったので、高知の山内勇の三男氏広を迎えて養嗣子として家を継がせた。

陽太郎は華族に列せられ男爵を賜わったが、これは彼の先祖が宿毛郷6,800石の邑主として300年の善政の余徳にもよるが、彼が維新当時郷土宿毛の士卒100余名を率いて従軍し、北越の山野に佐幕軍を破ったあの功績が認められたことに大きな原因があるといわれている。

伊賀陽太郎 伊賀陽太郎の墓 伊賀東山墓地標柱
伊賀陽太郎 伊賀陽太郎の墓 伊賀東山墓地標柱
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