君は宗教会の総理大臣
昭和4年9月、後藤環爾が西本願寺執行長に任ぜられた時、時の内閣総理大臣田中義一陸軍大将が、築地本願寺の環爾のもとへよろこびに訪づれた。そうして
「君は本願寺の総理大臣になられたとのこと、まことにお喜びに堪えない。今後君は、宗教に、自分は国政に、共に邦家の為力を合せて御奉公致そう。」と云われた。田中首相は本願寺末寺萩連正寺の門徒ではあるが、しかし一国の首相がこうして、わざわざの来訪は両者がよほど親しい間柄であったと共に、執行長と云う役目が極めて要職であるからと考える。西本願寺は由来、皇室とは特別に深い関係に結ばれ、格別に格式の高い寺院である。そうして全国津々浦々にある末寺(宿毛市清宝寺もその一)を統轄する全国真宗の総本山で、その最高責任者の執行長はそれこそ僧籍にある者としては最高の地位で、田中首相の言葉も、あながち過大評価した言葉でもあるまい。
又加藤内閣の大蔵次官であった小野義一は、環爾を悼む文の中で、次のように述べている。
土佐の一寒村にある真宗寺(清宝寺のこと)の一和尚に身を起し、本願寺執行長の栄位をかち得たる君の偉大さは、今更喋々を要しない。政界に浜□雄幸首相を出したる土佐は霊界に後藤執行長を送った。両々相並びて郷土の誇りとする所であった。(中略)
浜口既に逝き、今又君他界さる。政界、霊界の両巨頭去って郷土的誇は相次いで失なわれた。実に只に郷土のみにとどまらず、日本国の損失である。
1人は時の首相、1人はかつての大蔵次官、共に日本の最高権威者である。たとえ2人の言辞に多少の修飾はあるとしても、環爾がわが国第一流の人物であったことは争えない事実と考える。
後藤環爾の追想録を読んで見ると、彼が世に在った当時、政界、財界その他あらゆる社会の巨星と随分深い親交のあったのに驚ろく。前述の田中首相、小野義一はもとより望月圭介、安藤正純、横田千之助、宮城長五郎、俵孫一等の各省大臣をつとめた政界の長老、又財界では藤原銀次郎、松永安左衛門、正力松太郎等実業界の第一人者、いわゆるわが国の歴史に残る大人物と互いに水魚の交わりをしている。そうしてこれらの人物が口を揃えて、彼の生前の業績を称えている。正に彼後藤環爾はわが国宗政界の巨頭であり、我等郷土人の誇るべき人物である。
八面六臂の活躍振り
後藤環爾は明治4年、宿毛町本町の清宝寺住職の長男として生をうけ、生れながらにして仏の道の教育を身につけた。長ずるにつれ極めて理智に富み、青雲の志止み難く、九州その他に遊学の後、明治32年、東京仏教大学校を卒茉している。そのころ東京帝大に通っていた小野義一とは特に親交があり、同宿して机を並べて互いに励み合ったと云うことである。ことに当時、日本鉄道株式会社の社長をしていた先輩小野義真にはよく可愛がられ、たびたび晩餐等を共にしていただいたようである。
学を終えた彼は帰省して、父をたすけて、清宝寺の住職にいそしんでいた時代がある。青年僧環爾は日日の勧行に精出すかたわら、よく当時引退していた林有造翁の門をたたいて指導を受けたらしい。そうして町の青年を時々寺院に招いて互いに修養につとめた。すなわち郷士青年の修養の中心的役割を果していた。
しかし英才はいつまでも、草深い郷里に埋め置かれず、やがて本願寺よりまねかれて京都本山勤務となり、教学局注記に任ぜられた。時に明治35年、彼の31才の時である。日露戦争には、彼は本願寺の従軍布教僧を命ぜられ、第三軍司令部付として活躍している。そうして凱旋の後、東京の築地本願寺別院勤務となり、やがて東京出張所長を命ぜられ、彼のオ能を存分に活動さすことの出来る本格的な椅子を与えられる事になった。その後再び京都の本部に召されたこともあったが、大部分の活動の本拠を束京として彼は東京、京都間を往復し、昭和4年58才にしてついに本願寺執行長の最高の要職に就任したのである。彼はその後も本願寺の要職を歴任、時には台湾開発総長として台北の地へ、又時には震災慰問答礼使並に教況視察のためアメリカに派遣される等、その他東京市や、仏教連合会等の他団体の重要役員を兼ねて活躍したが、昭和11年の春2月、64才を以て東京にて逝去、その一生を終えている。
築地本願寺の建立
後藤環爾の畢生の大事業は束京築地本願寺の再建である。大正12年9月1日の大震災は一瞬の間に大東京市を廃都と化した。ことに本所深川方面の被害は大きく、数十万の圧死者、焼死者を出し、生き残った者も住むに家なく、飲むに水さえない全くの生地獄であった。住民はすべて茫然自失、全く手のつけようもない混乱の中である。しかも交通機関はすべて麻痺し、人心は極度にすさみ、ついに政府は戒厳令を布いて治安を維持すると云う最悪の状態になった。
本願寺築地別院も、もちろん灰燼に帰した。ここは本願寺の東京における本部の所在地で関東の本拠の全滅は布教はもとより、あらゆる活動面でまことに手痛い被害であった。しかし彼はひるまなかった。断然起ち上って、この難民救済に乗り出したのである。彼等に何よりも先づ食を与え、寝る場所を供し、怪我人、病人の治療に当ることが先決問題と考え、本部と連絡して慰安休息所、簡易診療所の応急設置に乗り出した。築地本願寺の境内は4散した瓦礫、焼けただれた残材の取片付けの暇も無いのに、庭の片隅みに天幕を張って病人や怪我人の収容を始めたが、環爾等は不眠不休の活動で、当時を知っている人達の語る所によれば、どれがお医者さんやら、坊さんやら、又大工さんやら風体だけでは全くわからない格好で奮斗していたそうである。そうして青山、本所、宮城前広場、深川、猿江、三河島等次々に慰安休息所を開設して難民を救済し、又百方手をつくして医師を探して診療所を開いて医療救済に乗り出した。衆生済度、難民救済、云うは易いがこの非常事態に当面していち早くこれを実行した本願寺の処置は、まことに当を得たもので、これを実行した環爾達は貧しい都民からは慈父のように慕われたと云うことである。
震災から日を経るにつれ、復興の金槌の音も次第ににぎやかとなり、都民のあの不安、焦燥、無気力も次第に失せて街は日に日に活気をおびて来た。環爾の本格的な活動がこの時から始まったのである。即ちそれは築地本願寺別院復興の悲願達成への道である。都民の真の立ち直りは、精神面の立ち直りにある。不屈不撓、安心立命の境地に導く心の道場の建設こそ、宗教家に課せられた課題であると信じた彼は、この荒野の中に世界的な大建築を建立する悲願を樹て、あらゆる困難と斗う決意の下に研究を始めた。
築地本願寺の再建には何人といえど、異議をはさむべき何物もないが、再建で先づぶち当った問題は位置であった。旧位置に復旧か、又資金その他の関係から郊外に適地を求むるか。喧々がくがくの中で彼は旧位置への復旧を固執した。例により強引で粘り強い彼の主張はついに通り、築地での復旧に決定すると彼は直ちに、建築委員長に藤原銀次郎氏を担ぎ出すことに成功した。
藤原氏は我が国実業界の巨頭であり、財界は彼の手で左右出来得るとさえ云われていた大人物である。彼の委員長就任が決定した時、環爾は事は半分以上出来上ったと云って喜んだと云うことである。それにつけても、こうした大人物に食いこみ、これをして委員長たらしめた環爾の手腕の非凡さに誰もが驚いたと云う。
築地本願寺別院の様式は全く世界に類のないものだと云われる。これは環爾が時の東京帝大教授伊藤博圧に研究を依頼し、その結果、立案設計したもので世界の宗教建築の粋を集めて立案したものであると云う。本堂正面や両袖は有名な祇園精舎の彫刻やマンダラの技法を取り入れた印度仏教美術の粋を模し、又階段から地階への構造は朝鮮美術の粋、慶州の仏国寺の型を模したものである。その他世界中の建築様式をそれぞれの個所に取り入れて仕上っているので、或る意味ではキリスト教の建築もマホメット教の建築も取り入れた全く新らしい寺院型式である。その上本堂正面が宮域を向いて建って居り水道栓を上下八方にひきどこからでも消火作業の出来るように設備されている。
こうして都の一角に世界でも珍しい大寺院が出現したことにより、彼は之を都民の心のいこい場として広く世間に提供した。宗派の如何を問わず、およそ宗教的、修養的行事には喜んでその利用を許した。当時から都民の間では何宗であろうと築地本願寺で葬儀を営むことが、一般常識にさえなったと云う人さえあるのを見ても彼が如何に大衆の為の建築として努力したかがわかる。とにかく築地本願寺の再建は彼の畢生の大事業であり、彼の心血をしぼっての成果である。
教育事業界の英傑
東京千代田高等女学校と云えば都内でも有名な名門校で、戦前にはその淑徳温雅な校風を慕って入学希望者が多いまことに狭き門の学校であった。しかし環爾が東本願寺東京事務所に職を奉じた明治38年頃は、白蓮教会と云う築地本願寺の配下に当る一教会の営む、ささやかな私塾的存在で、その名も女子文芸学舎と云う生徒数も、わずか50人前後のまことに貧弱な存在であった、しかも事情により廃校寸前の状態にあった。人格は宗教と教育によってこそ完成するものだとの考えを抱いている環爾は、直ちにこの問題に取り組んだ。殊に当時の我が国の女子教育は、男子の教育に比して著るしく遅れており、極めて不振の状態であることに強い関心を持っていた彼は、この女子文芸学舎の廃止には絶対反対であるだけでなく、これの発展策を図った。
そうして関係当局者の意見を強引にまとめ、ついに白蓮教会と文芸学舎の全部を築地本願寺の直轄とし、教会の堂宇は全部、築地本願寺境内に移転し、その跡地を敷地として巨大な新校舎を建設した。そうして名も女子文芸学校と改めて、定員も300人に改ため女子教育界に新スタートを切ったのである。その後大正年間になり更に千代田高等女学校と改称、新たに千代田女子専門学校も併設して生徒数、数千に及ぶ大校にまで発展した。その間、環爾の学校に対する熱意は益々強く燃え、理事として直接、学校運営に貢献している。
次は武藏野女子学園(現在の武蔵野女子大学)の創設である。大正12年9月1日の関東大震災により、日本赤十字は難民救済の為いち早く築地本願寺近くの焼跡に震災救護院を開設した。しかもその建物は、半永久的な当時としては極めて立派なもので9月14日に起工し、建築費数十万円を以て突貫工事を行なった。数十万と云えば現在の数億円に相当するので、応急建築とは云え近所を圧する立派な物であった。所が翌13年3月、赤十字は計画変更でこの救護院を撤収することに決定した。
機を見るに敏な彼のことである。俄然、彼の活動が開始された。彼はこの建物を全部払い下げてもらって、新らしい女子教育の殿堂とする大構想を描いたのである。そうして例の通りの周到な計画と、粘り強い交渉によりついに赤十字を動かして、払い受けに成功して武蔵野女子学園の創立に成功したのである、追悼録には、彼は仕事をつくり出す人だと述べている人があるが、全くこの武蔵町女子学園の創設はその通りだと考える。又彼は政治家肌で、交渉や談判が極めて巧みで、政治的手腕に卓越していたとも述べている。然しながら千代田高等女学校と云い、又この武蔵野女子学園といい、彼に教育に対する愛情と熱意が無かったら、この2大事業も恐らく計画さえもされずに終った事だと考える。
その他彼がその生涯に関係した教育関係の公職の一部を挙げると次の通りで、如何に彼が教育熱心であったかがわかる。
京都女子専門学校(現在の京都女子大学) 理事長
千代田女子専門学校(現在武蔵野女子大学に合併) 理事
大分県扇城高等女学校
龍谷大学 理事
東京市京橋区盲人技術学校長 等。
社会事業にも活躍した
彼は又保育事業、医療事業、少年保護事業、社会教化事業等あらゆる社会事業に活躍している。現在は保育行政が確立し、全国どこに行っても公立、私立の保育所があって、働らく婦人達は心置きなく子女を託して終日仕事に精出せるが、戦前はそうした制度は全くなく、婦人労働者にとっては、労働中の子女の扱かいに一番困ったものである。環爾はこれこそ大きな社会問題として取上げ、本願寺の一大事業として取り組んだ。こうして京橋区に和光童園、本所に江東学園、杉並区に和田堀児童園を建て自ら施設の代表となっている。そうして働らく婦人達の暖かい味方として、子女の保育の全責任を持って進んだ。
震災後、直ちに築地本願寺境内に設立した診療所は彼の手腕で順調に発展し、医師も看護婦も職員も奉仕的な報酬で医療に当った。随って施療費や薬価はほんの申し訳程度であり、避難民にとってはまことに有難い話で、来診者は毎日朝から殺到し続けた。その為、客足の減った近辺の開業医等は大打撃をこうむり、薬価の協定違反だと医師会の名においてのたびたびの抗議に対し
「それでは今後は当診療所は薬価は一切取らないことにする。安いのがいけなければ只なら違反にはなるまい。そうすれば貴方がたの方へは患者は1人も行かなくなるがそれでも宜しいか」とたんかを切ったと云う逸話が残っている。この診療所が後の医療法人あそか病院であり、内科、外科等全科目を備えた完成した大総合病院にまで発展したが、それまでに至る彼の努力はまことに目覚ましいものである。
その他杉並区に特殊簡易宿泊所昭和寮を建て、その理事長をつとめたり、又築地本願寺職業紹介所代表、盲人救済のため東京盲人技術学校の校長として敏腕をふるった事等、数多くの社会事業に献身しているこその中でも深川区服業治産会理事長として、少年保護事業に尽した功績を嘉みせられて、春秋の観桜、観菊御宴に数回にわたって陛下よりお召しを受けたことは、彼が一生を通じての感激であったと語っている。
とにかく彼は明治、大正、昭和3代にわたっての我が国社会教育の大家であった。
宿毛と後藤環爾
「満 而 不 湓 素 雲」
彼は素雲と号した。素雲即ちスクモ、宿毛をもじったものと考える。郷土宿毛を懐しむ彼は号にまで素雲をつかった。号と云えば林譲治氏は寿雲である。これも又スクモである。両者相通ずる所に私は大きな興味を覚える。
前略
私の特に申し上げたいと思うことは師(注後藤環爾氏のこと)が常に郷土宿毛ということを忘れられなかったことで、これは同郷の者として一入嬉しい事であります。貧しい子弟の面倒を見られたのも可なりの数に上っております。また郷土発展の点も忽がせにせられなかった。
(中略)
私が父を喪って郷里に帰るようになって地方自治に関与することになり、又衆議院に議席を占めるようになったに付き、絶えず陰になり日なたになって、援助して頂いたばかりでなく、本山を背景に持つ師は、あらゆる方面に知己を持って居られたので、その方面の方に御紹介を得、政治界の事情等教えられた処限りない事でありました。爾来議席を汚す事己に10年、時に文部省鳩山大臣の秘書宮となり、今日農林参与官をして居る事を得たのも師に負う所尠なからざるものと信じ感謝して居ります。 (下略)
以上は今は亡き林譲治氏が後藤環爾を悼んだ文の一節である。彼が若い時、盲年として又住職として林有造氏の門をたたいては指導を受けたが、その後その恩義を忘れず、譲治氏のために色々とつくしたことがこの文によく表われている。まことにうるわしい事である。環爾は後輩の指導育成につとめただけでなく、郷土の発展には特に気をかけていた。
たとえば現在の国道56号線の宿毛から、愛媛県に至る道路は昭和の初期、県道として高知県が篠川の県境までを敷設したものである。県の計画では松田川に添うて遠く迂回して、小川に出る路線が既に決定して近く着工の運びにまでなっていた。東京でこれを聞いた彼は断然之に反対をとなえ路線の変更を説いた。即ち宿毛町将来の発展のためには、隧道によって最短距離を結ぶ路線以外は考えられないことを強力に粘り強く力説して県に迫った。
彼のねばりがついに県をして、現在線の通りに変更を余儀なくせしめたものである。現在、宿毛町が北西部への発展の状態や又小川山北、草木藪方面が之によって受けている恩恵の大きい事を考えると、まことに先見の明と彼の郷土愛の深さに敬服する次第である。
彼こそ英雄豪傑である
彼は頭脳明晰で将来への見透しが極めて適格であり、一度計画を樹てると果敢に之を断行し、成功するまで絶対に後に引かない粘り強さを持っていた。彼はよく
「なんとかなる」と言う言葉をはいたと云うが、彼の云う、なんとかなるは結果としては、必らず成るであったと彼の知人が語っている。なんとかなるが、必らず成るに至るには、そこに言語に絶する工夫と努力が払われていたことを忘れてはならない。
「よくああした遊戯なんかに凝っている暇があるものだね」
これは世人が碁、将棋にふけっているさまを見て彼が常に云った言葉だと云うが、彼は晩年閑居する迄、娯楽的なものには一切目もくれなかった。執行長を退いて後は時には囲碁等を楽しんだと云うが、しかしそれは全くのザルゴの域を脱せなかったと云うことは、彼の面目躍如たることを示している。とにかく彼は常に世の為、人の為に何かを考え、何かを計画していて、彼の頭には休養、休息の時間がなかった。世人が彼は仕事をする人と云うより、仕事をつくる人だ。と云っているのも又面白い表現である。
彼の死後、彼を悼んで京都では追悼座談会が催されている。その殆んどが本願寺関係のそうそうたる人物のみの集まりだが、彼の元の同僚以上の人からは、面白いことに彼とけんかしたことのみが語られている。しかもそのけんかには誰もが彼に負けている。どのけんかも仕事の上のことであり、本願寺の興隆、衆生済度の上の計画立案についてである。彼は自己の信ずる方法にどこまでも固執し邁進するため、その強い心臓と実行力に誰もが最後には負かされたのである。しかしその為に当時は、随分と損をしたこともあるようだ。
この座談会で彼の後輩の言葉は皆が揃って、彼を親しみ易い親切な人だったと評している。むずかしい仕事を与えられた時は、十分な手当を支給してくれるよう骨を折ってくれたり、又自費でたびたび労をねぎらってくれたり、ずいぶんと気を配って下さったと皆が一様に感謝の気持を語っている。
或る時、彼の計画に反対の立場をとる青年達が彼を襲撃しようとたくらんだ事がばれ、却って彼から強い訓戒を受けた。そうして彼の主張に完全に共鳴させられた青年達は心気一変、以後彼に大変可愛がられ、彼の下業推進に献身的に努力して一生涯、彼の手足となって働いたことも語られている。
西本願寺、大谷尊由氏の令妹九条武子さんが亡くなった時彼は、布教のため台湾に旅行中であった。彼は急ぎ東京に帰り、まっすぐに霊場に到りすぐに棺前に進んだが焼香の前、彼は、声をあげて大声で泣いた。臨終の際、不在であった事もあるであろうが、彼があれ程大声を挙げて泣きわめいた姿を誰もが見たことがないと云う。正に彼は天心らんまんな快男児であった。
昭和12年1月の終りごろ彼は京都を訪ねている。身体に異常でもあったのか、暇な時はたいてい宿舎のストーブの側で椅子にかけ、静かに暖をとっていた。そのそばに梅のつぼみのかなり大きな生け花があったが、ストーブの暖気でつぼみが開きかけると彼ははさみをさがして、頃合いの一枝を自ら切り取って
「余り梅が見事に咲きかけたので、如来様へお供えしよう。勿体ない」と自分で仏様へお供えした。その翌日から、かぜ気味で臥床、4、5日して京都を離れたが東京へ着くとすぐに入院、明くる月の2月22日、64才をもってこの世を去った。
後藤 環爾
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