酒井融は、拙児ともいい、天保11年8月22日宿毛に生れた。父は俊拙である。青年の頃宿毛の家老の御典医羽田文友について医学を学び、医名を有慶といった。明治元年戊辰の役には、宿毛の機勢隊の軍医として従軍し、北越に転戦して戦功を立てた。
やがて宿毛に帰ったが、その後陸軍に入り主計将校となった。明治10年には、谷干城が護る熊本城の主計主任として糧秣等を管理していたが、この年たまたま西南の役が起り、熊本城は薩軍によって包囲されてしまった。援軍は来らず、囲みは解けず、その上兵糧倉は焼け、兵糧は1日1日と残り少なくなっていった。その間兵糧の責任者である酒井の苦心はなみ大抵のものではなかった。不公平な配分をすれば餓死者ができ、必ず争いが起きる。酒井は将兵をいましめ、はげまして頑張りつづけた。おかゆをすすり、木の実、草の葉はもちろんのこと、死馬の肉やねずみまでも捕って食べるという状態となった。城はまさに落城寸前である。ついに城から数百の決死隊が打って出で援軍と蓮絡をとり、やっと城の囲みを解くことが出来た。籠城実に五十余日、ついに薩軍を破って、西郷をして城山の露と消えさせる基を開いたのであった。この籠城の際、餓死者もなく立派に寵城を成功させ、谷干城をして籠城将軍の名を世界にとどろかしたのは、主計主任であった酒井融の功績ともいうことが出来るのである。 この戦において酒井は、谷干城の絶対の信頼を得たが、やがてこれがもとで、、日清戦争で大抜てきを受けることになった。
その後主計中佐まで進級したが、やがて軍隊を退いて、会計検査官となって会計検査院に勤めた。会計検査院は同郷の小野梓の考えによって開設されたもので、藩閥政治の情実を会計検査によって防ごうとしたものであった。小野梓はここに勤めて活躍したが、明治14年大隈重信の下野に従って官を去っている。酒井がこの会計検査院に入ったのはその後のことである。会計検査官時代の酒井は、馬車によって送り迎えをさせ、自宅にはコックも雇っていたというから、生活にはかなりの余裕があったようである。
明治16年の暮、宿毛から1人の青年が酒井をたずねてやって来た。この青年こそ後の冨山房の社長坂本嘉治馬である。嘉治馬の父は喜八という足軽で、戊辰の役に従軍して帰郷の後に病に倒れた。当時軍医として共に従軍した酒井は、喜八の働きもよく知っていた。その喜八が病に倒れたことを知った酒井は、1里近くもある坂本の家まで毎日毎日往診をし、そのおかげで喜八は一命をとりとめる事が出来た。このことがあってから喜八は、事あるごとに酒井を命の恩人だと人に語っていたが、幼い時からこの話を聞かされていた坂本は、青雲の志をいだいて無断で家をとび出し、父の恩人酒井を頼ってたずねて来たものである。
坂本は1カ月間も酒井の家で厄介になり、更に酒井の世話で、当町小野梓が開店したばかりの東洋館書店へ勤めることになった。やがて小野が病に倒れ、その死後坂本は、小野の志をついで冨山房を起し、やがてあの大出版会社をつくったのであるが、全く坂本にとっては酒井は大恩人である。もし酒井がいなかったならば、冨山房は生れなかったと言っても過言ではない。
やがて会計検査官を辞した酒井は宿毛に帰って、自適の生活にはいったが、東亜の風雲は急をつげ、明治27年、日清戦争に突入した。この時、野津大将の率いる第1軍の糧廠部長として大抜てきを受けたのがこの酒井である。第1軍の糧廠部長は少将でなければならない。しかるに酒井は中佐である。間違いではないかと陸軍省に電報で問いあわせたところ「間違いではないすぐ上京せよ」との事で直ちに上京した。そして少将待遇となって出陣したのであった。
このように、酒井を第1軍の糧廠部長に推せんしたのは、かっての上官谷干城であった。干城は、熊本籠城の際に酒井の人物、力量すべてを知り、絶対の信頼を持ったが、「今次の戦争で第1軍の糧秣の責任者としては、酒井以上の者はない、たとえ階級は下でも絶対に酒井でなければならない。」と極力酒井を推せんしたということである。
酒井は、谷将軍の期待にこたえて、みごとその大任を果たしたが、当時のことを後年、次のように語っている。
「日清戦争で、野津大将の第1軍の糧廠部長をしている時、しょっちゅう御用商人がワイロを持ってやって来た。その都度しかりつけ品物は副官をして送り返させていたが、後をたたない。たまりかねた私はついに「今後ワイロを贈る者は御用商人の指定を取り消す」との軍命令を出した。それ以来ワイロを持って来る者はなくなったが、あの当時、50万、100万の金をつくろうと思えばわけのない事じゃったが、それをしなかったのが、わしの偉いところかな、おかげで今は貧乏をしているが。」
戦争の後での論功行賞でも功を同僚にゆずっている。すなはち同僚の現役の者に、「君は現役だから将来役に立つだろう。」といって金鵄勲章をゆずり、「自分は予備役であるからこれで十分だ」といって勲三等をもらっただけであったという。
日清戦争後は再び郷里に帰って余生を送ったが、老いて後も、曲ったことと、あいまいなことは大嫌いであった。役場や警察にもよく遊びに行ったが、職員たちが書類を書き損じて、紙を丸めていると「国民の税金で買った紙を無駄使いするとは何事か。」と大喝するので、職員たちは彼が来ると小さくなっていたという。
中村へ行こうと思って人力車夫に出発の時刻を聞くと、「5時頃です。」と答えた。すると酒井は、「5時頃とは何か、5時なら5時、5時5分なら5時5分とはっきり云え。」それで車夫が「五時です。」と答えると、翌朝5時かっきりに酒井は来ていたという。すべてがこのような調子であった。
大正9年8月30日、81才の高令で亡くなったが、その戒名も、円融院剛毅寿徳居士とかたい名がつけられている。今、市内の城山墓地で静かに眠っている。
酒井 融 | 酒井融の墓 |