生い立ち
従4位勲2等、元大蔵次官小野義一は明治8年10月7日、宿毛町与市明の里で小野義為の長男として生れた。明治24年7月、宿毛小学校卒業後は、高知の県立第一中学校に入り、ついで東京府立第四中学校に転校しているが、どこでも常に首席の座を占めている。ついで東京の第一高等学校、東京帝国大学と進み明治36年7月に帝大法科をこれ又首席で卒業して、当時学生としての最高の栄誉と謳われた、恩賜の銀時計を拝受している。
義一の学生時代の秀才ぶりについては、今に数多くの逸話が伝えられてる。生家はあまり裕福では無かったので、中学以降はすべて東京在住の伯父、小野義真氏の財政的援助によって勉学が出来たものらしい。高知の中学から府立四中へ移ったのもそのためであり、彼自身は質素倹約、ずいぶんと気をつかって勉学にいそしんでいた。小学校以来、大学を終えるまで教科書や参考書を一切買わなかったことは有名な話である。小学校や中学校では友人の教科書を借りて、自分の手で写本をつくって、これで教科書代りに使用し、又高校や大学では、図書館をフルに活用して、参考書等一切購入しないで勉強したと伝えられている。しかも成績は抜群で大学の定期試験の時には、その前夜はきまって十余名、時には数十名もの学友が彼の下宿を訪れていたという。それは明日の試験問題について、彼の指導を仰ぐためであった。彼等は係りの教官の指導を受けるより学友である義一の指導が数倍よく理解出来、したがって義一に指導を受けてさえおけば、絶対に落第の心配はいらないといっていたということである。とにかく、彼の学生時代は苦労しながら学んだ上に、全く頭脳明晰な天才的な模範学生であったわけである。
大蔵省時代
明治36年7月、東京帝国大法学部を首席で卒業した彼は、直ちに大蔵省に就職した。2年後の38年8月には日露戦争によって、新らしくわが国の領土となった樺太の民政署事務官を兼任させられ、翌39年の終りまで、1年半近くを新天地開拓の事務に忙殺された。39年12月には大蔵省煙草専売局主事に任ぜられた。これは県の大先輩、後の総理大臣浜口雄幸氏が当時専売局長であり、彼の敏腕に目をつけて、彼を引き抜いたものであった。じらい彼は浜口氏に特別に引き立てられている。
専売局在任中に、彼は命令によって4年近い間、欧米に派遣された。こうした長期間の派遣は、事務官としてはめずらしい事であり、この間に彼は煙草専売に関する欧米諸国の制度を徹底的に研究し、帰国の後この制度を法制化して現行専売局法の基礎を確立した。この功績は大蔵省では今もなお大きく評価されている。
なお彼は留学中の研究の一端を「社会政策の根本観念」と題して帰朝後発表しているが、この研究は当時としては、まことにざん新であり、博士号を贈るに値する立派なものであった。そこで多数の先輩や学者達から、博士論文としてそのまま大学に提出して、審査を受けて博士号をもらうよう強くすすめられたが、彼は国費をもって国の命によって行なった研究の一端を、自分の博士号取得に利用する事は良心が許さないといって、いかなる勧告もかたく辞退したという挿話もある。
大正2年6月には、再び大蔵省の本庁に帰任し、大蔵大臣官房会計課長に任ぜられ、ついで、大正4年には大蔵大臣秘書官とエリートコースをまっすぐに進んでいる。大正5年の暮には大阪の税関長に、こえて6年の夏には神戸税関長に任ぜられ、その年の10月には大蔵省銀行局長として再び本庁の重要ポストに帰り、大正9年夏には理財局長に転じている。
この時代が彼の最も多忙な時期で、日本銀行や横浜正金銀行の管理官、簡易保険積立金運用委員、特殊財産管理局参与、臨時法制審議会幹事、臨時財政経済調査委員、臨時条約調査委員、臨時治水調査委員、米穀委員、東京道路評議員、労働保険調査委員、救恤審査員、臨時拓殖経済調査委員、社会局参与、産業組合中央金庫評議員等、数限りもない多くの兼職を命ぜられ、夜に日をついでの活躍をしたものである。
中でも国会の大蔵省所管事務政府対策委員として議会ごとに見られる彼の活躍はめざましいものがあった。主計局長西野元、主税局長松重蔵、理財局長小野義一の3人を当時大蔵省の三羽烏ととなえ、この3人が揃えば国会でも委員会でも答弁には絶対に何の心配もいらなかったと「昭和大蔵省外史」に記載されているのを見ても彼の活躍ぶりを知ることが出来る。
大正13年の春、彼は願を出して理財局長を辞任し、高知県より衆議院議員に立候補、めでたく当選して政界に足をふみ入れた。そうしてその年の6月、浜口雄幸大蔵大臣に求められて大蔵政務次官の要職についたが、在職わずか2カ月、8月にはみずからその職を辞している。彼の才能と経験をこの職で十二分に生かす期間のなかったことは国家のために、まことに残念ではあるが彼の良心が留任を快しとしなかったようである。このことについて世間では当時いろいろとうわさされたらしいが、真相は次のとおりであったといわれている。
当時は憲政会と政友会の2大政党対立時代であり、憲政会党主加藤高明を首班とする内閣時代である。彼は町の大蔵大臣浜口雄幸に認められて次官となったが、それと同時に次官は必らず党員でなければならないと憲政会より強引な入党勧告があったのである。政友会総裁高橋是清もまた彼の非凡の才能を認めて、早くより彼を可愛がりその入党をすすめていた。
こうした両者の中に立って、彼は結局どちらにも入党せず、次官を辞して無所属の一代議士として田政に関与する道を選んだものといわれている。
とにかく明治36年、初めて奉職以来二十余年の大蔵省の生活に別れをつげ、新しい活動に乗り出したものである。昔から大蔵官僚はエリート中のエリートといわれているが、それは国家の経済をつかさどる大蔵省には自然に人材が集まった結果、そうした事になったものと考える。最近の総理大臣もほとんどが元大蔵官僚であることなどを考えると一応うがった言葉だと思うが、とにかくこの人材の府で断然、頭角を表わした小野義一の存在はまことに、偉大であったということが出来る。
退官以後の彼
大蔵次官を辞した彼は一介の無所属代議士ではあったが、こと財政問題に関しては大きな発言力を持っていた。議会での彼の質問には政府当局も相当に苦しめられたらしいことは当時の新聞に「山椒は小粒でもピリリと辛い」という表現で表わされているのを見てもわかるわけである。大男ではない、むしろ中以下の体格の彼が、原稿も持たずにあらゆる数字、統計をそらんじていて、とうとうと得意な財政金融問題をぶった質問戦は、国会の華であったと今に伝えられている。
大正5年4月、彼は私費による第2回目の欧米外遊の旅に出た。そうしてヨーロッパ諸国の政治、経済を再び研究した彼は、帰朝後招かれて拓殖大学や法制大学の教授や、また講師にと後進の指導につくすことが多かった。
また昭和3年2月には、東京市の第1助役として迎えられる事になった。当時の市長は、元大蔵大臣をつとめた市来乙彦であり、ここでも彼の大蔵省時代の逸材ぶりを見こまれての就任であった。当時、東京市は大震災後まだ数年を経たのみで、その復興に懸命の時期であり、加えて金融界の引き締めのため全国的に不景気風の吹きまくっていた時期であり、第1助役として彼が大東京市の経済運営に盤石の重みを見せたことはいうまでもない事であった。
彼は性質がきわめて恬淡で率直であった。上司に対しても一切お世辞等はつかわなかった。誰の前でも自分の意見は堂々と主張して、なかなかゆずることがなかった。それは計画を基礎として、彼の持つするどい洞察力、理解力、判断力によって組立てられた理論である故、実によく筋の通ったものであり、時には上司もやりこめられることがあったという。それゆえ、すべての上司からうけが大変よかったというわけではないが、しかしなんといっても筋が通り、実力がともなっているので、好むと好まないとにかかわらず彼を重く用いないわけにはいかなかったということである。彼もまた土佐人特有のイゴッソウの1人であったと考える。
昭和4年5月、東京市助役を退いた後の彼は、再び拓殖大学等の教壇に立ち、その明晰な頭脳で学生達の信望を担ったが、昭和17年には再び高知県より立候補して翼賛議員として当選している。当時は大東亜戦争のさ中であり、軍事費の膨張により危機にひんした国家財政を救わんと、齢すでに70をこした彼は空襲下で懸命に代議士の職務に精励した。当時の大蔵省の配布した資料に対して、綿密に調査研究して執筆したと思われるぼう大な大論文が、今なお未発表のまま小田原市国府津の別邸に遺品として大切に保存されていると聞き、まことに残念にたえない。
昭和25年5月神奈川県国府津の別邸で75才の天寿をまっとうして亡くなった。
小野義一履歴
明治9年10月7日 | 宿毛2644番地に生まる。 |
明治24年7月 | 宿毛尋常高等小学校高等科卒。 |
明治25年4月 | 高知県立高知第一中学校入学。 |
明治30年3月 | 東京市立第四中学校卒。 |
明治33年3月 | 第一高等学校卒。 |
明治36年7月 | 東京帝国大学法学部卒。 |
同 | 大蔵省に就職。 |
明治39年8月 | 樺太民政署事務官を命ぜらる。 |
明治39年1月 | 貴族院議員男爵尾崎三良の長女寿子と結婚。 |
同 12月 | 大蔵省煙草専売局主事に任ぜらる。 |
明治40年6月 | 大蔵省参事官に任ぜらる。 |
同年 9月 | 大蔵省より欧米各国に留学を命ぜらる。 |
明治44年4月 | 米国経由帰朝。 |
同 7月 | 専売局長官官房調査課長に任ぜらる。 |
大正2年6月 | 大蔵大臣官房会計課長に任ぜらる。 |
大正4年8月 | 大蔵大臣秘書官に任ぜらる。 |
大正5年12月 | 大阪税関長に任ぜらる。 |
大正6年7月 | 神戸税関長に任ぜらる。 |
大正6年10月 | 大蔵省銀行局長に任ぜらる。 |
大正9年8月 | 大蔵省理財局長に任ぜらる。 |
大正13年1月 | 願いにより退官。 |
大正13年5月 | 高知県より衆議院議員に当選。 |
同年 6月 | 大蔵次官に任ぜらる。 |
同年 8月 | 願いにより大蔵次官を退任する。 |
大正15年4月 | 欧州へ旅行。 |
昭和2年4月 | 拓殖大学教授に就任。 |
昭和3年2月 | 東京第一助役に就任。 |
昭和4年5月 | 同上退任。 |
昭和11年2月 | 東京都第六区より衆議院に立候補落選。 |
昭和17年4月 | 翼賛選挙で高知県より立候補当選。 |
昭和22年 | 翼賛議員のかどにより公職追放となる。 |
昭和25年5月 | 神奈川県国府津にて逝去。 |
小野義一 | 小野儀一書 |