宿毛市

林 譲治

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林 譲治


林譲治は明治22年3月24日、林有造の二男として生れた。大正7年7月京都帝国大学独逸法律科を卒業したのが30才の時であった。その頃は不景気風が吹き荒れて、全国各地に米騒動の起っている最中で、就職ははなかなかむずかしい時代であったが、彼はこの年の11月三菱倉庫株式会社に入社することが出来た。

翌大正8年男爵陸軍中将新井清筒氏の三女靖を娶り、阪神香櫨園に新居を構えたが、その翌年夫人は21才の若さで急逝したため、その翌年靖夫人の妹静を娶った。その年の12月、父有造は80才の高齢を以て宿毛で歿した。

翌大正11年彼は三菱倉庫株式会社を辞して宿毛町に帰郷し、父亡きあとの我が家を守ることになった。長男辿が誕生したのは丁度その年である。翌12年郷党の輿望を担って彼は町長に就任した。ついで宿毛農会長等彼はここ23年間みっちりと郷党に直結して地方自治の実態を研究した。これが後年政治家として彼が大をなす上に大きな基盤をつくったものだと考えられる。

昭和2年推されて高知県会議員に当選し、ここに政治界に進出する機会をつかみ、翌昭和3年の普通選挙第1回の衆議院選挙に立候補したが、わずか百五十余の僅差で惜しくも落選し、初陣を飾る事が出来なかった。彼はこの失敗にも挫折せず、昭和5年には再び衆院選に出馬したが、この時は首尾よく当選して、中央政界進出の意思を達成することが出来た。時に42才のまさに働らき盛りであった。

昭和6年、犬養内閣成立に当たり、彼は文部大臣鳩山一郎の秘書官に就任した。昭和7年の2月には又総選挙が行われたがこの回も首尾よく2度目の当選をかち取る事が出来た。彼は国事のためますます多忙な毎日に明け暮れるため、在郷の妻子を東京に呼び寄せ文部大臣秘書官に居をかまえることになった。満州事変は次第に深刻さを増し、わが国の外交は悪化の一途をたどりつつあった。やがて五・一五事件が起こり犬養首相は射殺され中央政界はまったく騒然となった。

その間において彼は昭和11年翌12年と相次ぐ総選挙に、3回目、4回目と引き続いて当選、彼の手腕力量は次第に政界に重きをなしてきた。

昭和12年近衛内閣が成立、7月7日には戦火は満州より中支に飛火して、遂に支那事変とり、日本は次第に軍国色一色にぬりつぶされて行った。彼はこの事変勃発後10日の7月17日東京を立ってパリに向った。それは第33回列国議会同盟会議出席のためである。団長鳩山一郎等と共に神戸出帆、会議に出席後欧米各地を視察して、翌13年2月横浜に上陸したが、その間わずか半年余りの間に事変はますます拡大して、帰国後2ヶ月にして国家総動員法が公布された。

翌14年平沼内閣の成立と共に彼は農林参与官に抜てきされたが、わずか7ヶ月にして阿部内閣に代ったため彼も農林参与官を辞した。

昭和16年10月東条内閣成立、12月8日には、ついに真珠湾を攻撃し、大東亜戦争に突入してしまった。これより先東条は戦争態勢を整えるため、議会に強力な圧力をかけ、翼賛議員同盟を結成させたが、彼は議員の良心がこれに加入することを許さず、同志と共に同交会を結成して、政府の圧力に反抗した。

こうした状態の中で昭和17年4月議会は解散され、世に云う翼賛選挙が行なわれたが、翼賛候補でないため彼の奪斗も空しく落選の憂き目を見て、4年にわたる長い彼の浪人生活が始まった。

昭和21年敗戦日本が始めて行なった総選挙に彼は第5回目の当選をかち取った。長い4年の浪人生活中は彼にとってはまったく受難の時代であったため彼の喜びも又一入であった。希望のない戦争のため疲労と困ぱいの毎日の中で彼は不幸腸チフスに取り付かれたのである。百余日に余る東大附属病院での隔離生活。医薬も食糧もまったく欠乏した当時によくも生きながらえたと後日彼は述懐している。

敗戦とはいえ平和と民主をかち取った日本の政界は、俄然新しい息吹きをしはじめ、彼は新たに組識された日本自由党に入党し、直ちにその総務に推された。つづいて第1次吉田内閣が成立すると、彼は内閣書記官長に就任した。

昭和23年10月、彼は第2次吉田内閣で副総理、厚生大臣に就任した。首相兼外相の吉田茂も副総理、厚生大臣林譲治も共に土佐の西端遍境の宿毛出身であり、まったく宿毛内閣であった。宿毛の人間にとっては、まことに嬉しい時代であった。

その後24年1月第7回目の代議士当選をかちとり、相変らず引き続き、副総理、厚生大臣をつとめたがついで国務大臣、副総理を経て、昭和26年3月ついに衆議員議長に選ばれた。

昭和27年8月、在職1年半で議長職を引いたが、その後は、党の最高幹部として、或は幹事長に、又顧間にと党のためあらゆる努力を惜しまなかった。その間において第8回、第9回、第10回と引き続いて代議士に当選し、昭和34年1月には衆議院議員在職25年を越す永年在職議員として院の表彰を受けた。時に彼は71才であった。

そのころから彼は食道に異状を認め、次第に悪化の傾向があるので、慶応病院に入院して食道切除手術を行ったが、まだ入院中に第33回臨時国会が召集されるや、病院より病をおして議会におもむき、その職責を果して選挙民への義務を果したという、まじめそのものの彼の一面を語る挿話も残っている。その後経過良好で退院し、12月の第34回国会には出席して年を越したが、これがついに彼の最後の登院となった。

昭和35年正月早々に再び食道に異状を認め、再度慶応病院に入院して治療を受けたが、病状は次第に悪化して、4月5日午前9時22分「食道癌」でついに逝去した。行年72才。

訃報が天朝に達し4月7日には従二位に叙せられ勲一等旭日桐花大綬章の下賜があった。そうして4月8日自由民主党葬により盛大な葬儀が東京において行なわれ、5月7日には宿毛市葬を受けて、郷里宿毛東山の墓地に葬られ、華やかな人生の幕を閉じた、そうして元総理大臣吉田茂氏の筆による巨大な墓碑の下に静かに眠っている。

その後元首相池田勇人氏等の発企により宿毛市役所構内に彼の銅像が建立され、今に市民はもとより観光客の崇敬を集めている。

彼は人となり極めて真摯で、情深く清濁あわせのむ雅量を備えていた。上京した後輩が彼の門をたたくと誰彼の別なくよく世話をしてくれた。たとい政敵の縁故者でも喜んで迎えてくれ、どんな多忙な時でも何かと都合をつけて、何やかと郷土の話を聞くのが彼の楽しみの1つでもあった。

こんな話もある。彼が厚生大臣に就任した昭和23年の暮のことである。新年度の予算編成を前に、猫の手でも借りたい多忙な1日、地方からは予算獲得のため陳情団が何百人もおしかけて厚生省の廊下はごった返しの受付へ、一見田舎者らしい1人の男があらわれて、
「厚生大臣に会わせて下さい。よいせのせんが会いに来た。せんの一大事です。どうぞ助けると思って、せんが来たと大臣に取りついで下さい。」受付からの連絡で大臣秘書が来てみると、何のことやらはっきりはわからないが、とにかくその態度が極めて真剣で真にせまっているので一応大臣に伝えることになった。秘書から聞いた林はびっくりして立上り
「何よいせ・・・のせん!秋沢専市が来てるのか。会いたかった。なつかしい男だ。すぐに通せ。」せんとは秋沢専市の事である。昭和のはじめ彼がはじめて衆議院に立候補し不幸落選の憂目を見た時のこと、秋沢専一は当時まだ町の青年で、林の為に身を粉にして斗ったが戦やぶれると秋沢らはよいせ・・・(当時まで伝わっていた竹でつくった粗製のみこしのようなもの)をもち出して泣きわめいて町をねり歩いて話題となったことがある。その後秋沢は宿毛を後に九州に移住し、延岡の住民となっていたので、彼とは20年近く会っていない仲であったが、延岡市が水道施設をするため、厚生省の補助獲得に市長や議長が上京するに当り、彼は厚生大臣と同郷と云うわけで陳情団にやとわれて参ったのであった。

忙しい身である。然も高知県に選挙区を持つ現在の彼にとっては、他県の陳情団へそれほどの厚意を示す必要は無いと感ずるのが常人である。しかし彼はそうしなかった。彼は秋沢に心から昔の礼を述べ、陳情団へも出来るだけの便宜を与えた上、私の郷里の秋沢である。今後ともどうぞよろしくたのむと1席を自らかまえて礼を厚うして、延同へ帰さしたので陳情団はもとより延岡市民まで彼の情のこまやかさに、びっくりしたということである。

彼は号を寿雲と云った。すくもをもじったものと考える。又俳号は鰌児といった。これは彼の名前をもじったものである。彼は俳句でも一家をなし、句集「古袷」を発刊している。これをひもとくと優れた彼の人格がしみじみと味わえると共に、彼の歩んだ道がうかがわれる。

 次の句は句集「古袷」の一部である。

                             大正9年
下 宿 屋 に つ く ね ん と し て 年 の 暮
   (靖夫人を喪なわれた孤独の歳末の感じである)

                             大正10年
松 立 て て お 線 香 立 て て 今 朝 の 春
   靖の1周忌
目 つ む れ ば 落 葉 の 裏 に 晴 姿
   妻の墓を建つ
思 ひ 出 の ま た 新 な る 時 雨 か な
   父を失ひて(2句)
冬 ざ れ て あ ら は に 高 き 巣 箱 か な
父 を 葬 り 帰 る 山 道 冬 の 月

                             大正11年
   三菱倉庫株式会社を退く
幾 度 も 出 か ね し 炬 燵 つ ひ に 出 し
雪 の 日 に 炬 燵 を 出 で し 思 ひ あ り
   長男誕生
産 声 や 一 族 集 ふ 春 の 朝
初 孫 を 膝 に 朝 餉 や 菖 蒲 酒

                             大正12年
   郷里の鉄道問題陳情のため、大木鉄相を訪問、午前8時より午後5時まで待たされる
紫 煙 漂 ふ 応 接 室 や 福 寿 草

                             昭和2年
   県会議員に当選
手 近 な る 枝 に な っ た り 青 蜜 柑
   初陣の衆議院選挙に落選
藪 を 出 し 笹 子 あ へ な く う た れ け り

                             昭和5年
   前回の雪辱なりて初当選
あかぎれ の 手 を 握 り あ ひ 涙 か な
   昭午会(1年生議院の集ひ)
性 懲 り も な い 者 揃 ひ 春 の 宴

                             昭和7年
   選挙戦陣中
笹 鳴 い て そ こ ら 辺 り を さ ま よ へ る

                             昭和10年
   久振りの帰省
な つ か し き つ る べ の 音 や 五 月 雨 る る
   南洲翁の墓に詣でて
肌 寒 や 父 と 謀 り し 人 の 墓

                             昭和11年
   解散近し
活 け 替 ふ る 時 の 迫 り し 床 の 梅
   新議事堂竣工、憲政凋落して独りこの殿堂のみ輪奐の美を誇る
雪 の 峰 新 議 事 堂 の 背 景 に

                             昭和12年
   パリーにて
霧 深 き 凱 旋 門 を く ぐ り け り
   ロンドンにて
秋 酣 け て 雀 と 馴 染 む 老 紳 士

                             昭和13年
   太平洋上を故国に向う
乗 初 や 日 本 一 の 秩 父 丸

                             昭和15年
   祝従兄岩村通世氏栄進
神 酒 献 げ て 炬 燵 の 母 と と も に 祝 ぐ

                             昭和16年
   翼賛政治体制着々と整ふ、鳩山一郎先生に随ひて之に加盟せず
餌 に つ き て 走 る 鶏 あ り 野 山 枯 る
黙 々 と た だ つ い て 行 く 枯 野 道

                             昭和17年
浪々の身に為す事もなく専ら小唄の稽古に励む
日 傘 た た む 内 は 稽 古 の 三 味 の 音

                             昭和19年
朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人ぞなし今回の事胆に銘じ感謝仕候。只今熱30度3分(入院中某氏へ)
腸 は り し 福 寿 草 の 鉢 伏 し 拝 む
フ リ ー ジ ャ の 香 に つ つ ま る る 病 臥
看 護 婦 を 話 相 手 に 暮 遅 し
退 院 の 玄 関 先 や 春 の 風

                             昭和21年
戦後第1回選挙
御 利 益 を た ま ひ し 遍 路 札 納 め
内閣初期官長就任
牡 丹 活 け し 座 に 面 は ゆ く 坐 り け り
新憲法国会通過
台 風 の 過 ぎ し 朝 の 庭 に 立 つ

                             昭和22年
重責を離れて
新 緑 や 身 軽 に な り て 温 泉 に ひ た る
長女麗嫁ぐ
根 分 け せ し 牡 丹 の 園 の 主 か な
秋 の 夜 の た だ 一 言 は 夫 唱 婦 和
祝依岡顕知君の長男出生
世 の 幸 は 一 姫 二 太 郎 小 六 月

                             昭和23年
第1回の保守合同なりて、吉田、幣原、斉藤の諸氏会合(於荻外荘)
春 の 夜 の わ が ま ま 者 の よ き 集 ひ
厚生大臣就任
薬 掘 る 男 と な れ り 汗 か か ん

                             昭和24年
逐鹿戦中
報 謝 乞 ふ 田 舎 廻 り の 浪 花 節
転  居
兎 も 角 も 人 手 を 借 り て 冬 構
上 京 の 米 寿 の 母 と 御 年 越

                             昭和25年
春 の 月 議 事 堂 出 で て 仰 ぎ け り
神経痛に悩む
酒 や め て 妻 の 喜 ぶ 団 扇 か な
白 足 袋 の 宰 相 見 た り 萩 た わ わ
初 孫 の 無 心 の 寝 顔 幌 蚊 帳 に
土佐を一巡す
な つ か し き も の ば か り な り 里 の 秋
帰 り た る 土 佐 の 浦 々 秋 祭

                             昭和26年
除 夜 の 鐘 母 刀 自 九 十 に な り 給 ふ
屠 蘇 酌 ま ん わ れ に 九 十 の 母 の あ り
孫 抱 き て 妻 が 見 送 る 門 の 梅
春 日 差 す 欄 の 鉢 あ り 議 長 室
毎日新聞主催、新日本観光地選定会議会長として、足摺岬(2句)
指 さ し て 榕 樹 を 仰 ぐ 遍 路 か な
黒 潮 を 椿 林 の 木 の 間 越 し
衆議院議長に就任
蛇 穴 を 出 で て 戸 惑 ふ 姿 か な
就 任 の 記 念 に 植 ゑ し 柿 二 本

                             昭和27年
筆 初 母 に 寿 の 字 を 書 か せ け り
植樹祭(十国峠)
御 手 植 の 介 添 役 を 仕 る
党内問題紛糾
腹 立 つ こ と ば か り な り 梅 雨 模 様
破防法案審議、大混乱
国 会 は か て て 加 へ て 大 雷 雨
党幹事長として選挙中帰郷出来ず
鳴 か ば と て 籠 の 中 な る く つ わ 虫

                             昭和28年
母 九 十 二 歳 孫 三 歳 家 の 春
幹事長辞任(2句)
辞 意 も ら し 懐 手 し て 帰 り け り
辞 表 出 し 帰 る や 門 の 梅 の 花
選挙中(2句)
籾 蒔 く 手 あ げ て 応 へ て く れ に け り
谺 し て 居 る わ が 声 や 山 笑 ふ
ボ ー ナ ス を そ の ま ま 妻 に 渡 し け り

                             昭和29年
片 言 の 孫 の 年 賀 を う け に け り
旅 に 居 て 母 を 気 づ か ふ 大 暑 か な
娘 や り 嫁 を 貰 い て 老 の 秋
鵙 な く や 独 り 詣 で し 父 の 墓
こ の 冬 の 母 の 起 居 の 不 順 な る
吉田首相に総辞職を勧告
嫌 な こ と 言 う て 辞 去 す る 寒 さ か な
引退直後の吉田前首相を訪ふ(2句)
訪 れ や 炬 燵 の 上 に 洋 書 の り
お 歳 暮 の 母 に 贈 り し ち や ん ち や ん こ

                             昭和30年
久 し 振 り 身 軽 に な り て 初 明 り
年 迎 ふ 紋 服 の 母 は 九 十 四
当 選(2句)
か じ か め る 手 を 握 り あ ふ 同 志 か な
雪 に 逢 ひ 寒 風 に 逢 ひ て 着 き し 宿
更 衣 あ た か も 妻 の 誕 生 日
わ が 句 に も 老 を 覚 え て 秋 ふ か し

                             昭和31年
我 が 幸 の 母 が 九 十 五 屠 蘇 祝 ふ
初 鏡 参 内 前 の 身 だ し な み
灯 し て 母 と 並 ん で 初 出 水
老 妻 と 渡 る 元 日 の 二 重 橋
楊 梅 に 幾 年 ぶ り の 帰 郷 か な
昔 わ が 所 有 地 な り し 芦 し げ る
額 古 り し 古 里 の 家 ほ と と ぎ す
病 む 吾 に 婚 礼 の 菊 を 持 ち 帰 る
蒲 団 ま で 日 の 差 込 め る 病 臥 か な

                             昭和32年
屠 蘇 く む や 正 座 の 母 は 九 十 六
嫁 夫 婦 娘 の 夫 婦 家 の 春
母勝96歳の天寿を全うす
臨 終 を め ぐ り て 立 ち て 冴 返 る
三 月 は 母 の  れ 月 逝 き し 月
炉 を 寒 ぎ 母 の 仏 壇 設 け け り
かつての父に次ぎ、母も宿毛市葬の栄光に浴す
帰 り た る 遺 骨 あ だ か も 花 の 中
老 妻 を 東 踊 に さ そ ひ 連 れ
メ ー デ ー の 折 柄 母 の 七 七 忌
ほ と と ぎ す 鳴 く や 故 郷 の 第 一 夜
亡 き 父 の 書 斉 に 昼 寝 の 蚊 帳

                             昭和33年
淋 し さ や 母 亡 き 後 の お 正 月
酒 断 つ に は よ き 折 目 な り 古 稀 の 春
春 炬 燵 今 日 は 亡 母 の 一 周 忌
当 選(2句)
二 十 四 年   の 道 の 遍 路 か な
あ り が た や 遍 路 姿 も 十 一 度
貧 乏 は 終 生 つ づ く 古 蚊 帳
永年勤続表彰を受く
あ り が た や 三 寒 四 温 二 十 五 年
老 妻 と 二 人 の 家 庭 寒 卵
入 院 中
病 床 に   の 田 植 を 噂 し て
梅 雨 は 憂 し 病 名 つ か ず 床 に 座 す
憂 き 梅 雨 や 死 も か た き も の 生 も 亦
痩 せ 膝 を 立 て て け は し き 夏 毛 布
生 涯 を 詫 び 事 妻 の 古 袷
明 日 の 事 思 い な が ら の 蚊 帳 か な
看 護 婦 の 指 の 冷 た き 脈 と ら る
足 袋 は い て 寝 る く せ つ き し 病 後 か な

                             昭和35年
ひ た す ら に 夜 を 憂 ふ の み 老 の 春
情 に ま け 寒 さ に 負 け て 再 入 院
辞  世
日 本 の 桜 を 見 ず に 吾 は 逝 く
古 里 の 荒 瀬 の 桜 逝 き て 見 む

 

 

若き日の林譲治 林譲治銅像
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林譲治の墓 林譲治書
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TEL:0880-63-5496 FAX:0880-63-2618
E-mail:rekishi@city.sukumo.lg.jp
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