林包明は嘉永5年宿毛に生れた。父は邑主安東家(伊賀家)の家臣で包寿といい、祖父は林善次右衛門で、林有造の家系の本家筋にあたる。
明治7年、高知立志社が設立され、その提唱によって8年2月には大阪で愛国社が結成された。そうして自由民権運動は次第に活発になっていったが、宿毛では林包明がこれに呼応して、浜田三孝等と協力して合立社をつくって、自由民権運動に参加した。
しかし、間もなく愛国者は板垣の入閣のごたごたや、また資金面でも生きつまりを生じ自然解消のやむなきに至った。更に立志社も明治10年の土佐拳兵計画で、幹部のほとんどが獄につながれたので自由民権運動も中断の形になった。
そこで板垣は11年4月、愛国社再興の趣意書を発表し、9月には大阪で各県代表が集まって会合が開かれた。この時、林包明は浜田三孝とともに、宿毛合立社を代表して参加している。
11年7月、土佐国州会が設置され、2,000戸に1人の割合で議員が選ばれることになったが、包明は第17大区の代表として、浜田三孝、山本秀孝等とともに選出された。
13年3月の愛国社第4次大会にも、やはり宿毛の合立社250名の総代として参加し、その会で国会開設の請願書を提出している。その年11月10日には第2回期成同盟会を東京で開き、包明はこの会で起草委員に選ぱれて、国会期成同盟合議書を作成した。その後国会期成同盟は、大日本国会期成有志会と改称され、11月15日、沼間守一を中心とする一部が自由党を結成した。明治14年10月の大会には、有志会と自由党は手をとって新しく自由党を組織することを決議し、10月18日から創立総会がもたれたが、全国から集った者78人、後藤象二郎が議長となり、盟約を作り役員を選出した。
自 由 党 盟 約
第1章 吾党は自由を拡充し、権利を保全し幸福を増進し、社会の改良を図るべし。
第2章 吾党は善良なる立憲政体を確立するに尽力すべし。 (以下略)
というようなもので役員は
総 理 板垣 退助
副総理 中島 信行
常議員 後藤象二郎、馬場辰猪、末広重恭、竹内綱
幹 事 林包明、山際七司、内藤魯一、大石正巳、林正明
こうして自由党は結成され、林は選ばれてその幹事長となった。そうして自由党の勢は日に日にさかんとなったため、政府はその形勢をみて大いにおそれて、11月18日、京橋区警察署をして、自由党幹事長林包明を呼び出して詰問させた。
「自由党盟約第2章に、〝吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すべし"といっているので、集会条例第3条によって届出認可を必要とするものに該当するのではないか。」
林は、
「盟約第2章は、ただ党の中での目的を明らかにしたに過ぎず、政談のために結社したものではない。」
すると、警官は
「弁解の言葉は聞く必要がない、直ちに裁判所に告訴するからそのつもりでおれ、なお、自由党本部の表札は直ちに取り除けよ。」
林はその夜、党の臨時総会を開いて、
「盟約第2章は決して政治を論議する精神によったものではないので、あくまでこれを法廷で述べ、公平な裁判を受けなけれぱならない。しかし、今しばらくはこれを削除しておき、後に条例に抵触しないことが明らかになってから再びこれを加える事が好ましい。」と説き、翌9日、更に党員の臨時総会を召集して、そのように決定した。
こうした彼の苦心も報いられず、同月30日に裁判所から、
「自由党の主義は政治に関することを論議しなければ、その目的は達成できないのに、集会条例による届出をおこたったのは不届に付き、罰金2円を申し付ける」という宣告をうけて、林以下全幹事が罰せられた。
明治15年には政府の断圧は一層加わり、集会条例は更に強化せられて、
「政治に関する事項を講義するため結社する者は、結社前その氏名、会則、会場および社員名簿を管理警察署に届け出で、その認可を受くべし」と言論の自由を完全によく圧した。
その年の6月12日、臨時会議を終って、懇親会に移ろうとした矢先、京橋警察署から幹事が出頭せよとの命令がきた。そこで大石正巳が出頭すると
「集会条例違反ではないか、なぜ認可を受けないのか。」というきつい詰問があった。
6月27日には林幹事長が呼び出され、届出をすることを強要された。彼は役員にはかって、致し方なく届出をすることになり、6月30日党の役員名簿をそえて、自由党の届出をした。こうして自由党幹事長であった林には、政府の度々の弾圧があり、ついに明治15年8月には獄につながれる事になった。やがて刑満ちて出獄した彼は、爾後もっぱら著述に専念し、"社会哲学"等の数々の書を著している。
明治18年には日本英学館を設けて子弟の教育に従事するとともに、19年、星享、山田泰造らと、"公論新報"を発行した。この年保安条例により東京退去を命ぜられたが、憲法発布の特赦によってゆるされた。
その後の彼はみるべき政治活動もせず、大正9年6月17日、69才で歿している。然し壮年時代の彼が明析な頭脳と稀に見る雄弁で自由民権思想を鼓吹してまわった事実は県内はもとより中央でも大きく評価されている。
林包明著書