宿毛市

本山 白雲

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本山 白雲


桂浜の巌頭に悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像は、宿毛の生んだ偉大な彫塑家本山白雲の作である。

このほか中岡慎太郎、山内一豊、板垣退助など明治、大正に建てられた銅像の多くは彼の作で県内だけでも十指に余り、更に東京、大阪など全国に建っているのを合すると、その数は数十にも及ぶのである。

「あまりたくさん作ったので"銅像屋"などというかげ口もきかれたが、何といっても第一人者だった。維新の元勲の銅像で、彼の手にかからなかったものは、ほとんどあるまい。」白雲の助手として、龍馬の像の製作なども手伝った島村治文氏はこう語っている。

白雲は本名を辰吉といい、父茂武(省吾)母曽恵の二男として明治4年9月1日、宿毛に生まれた。父は宿毛邑主安東氏に仕える武士であったが、維新の際、家禄を失なってからは、その生活は決して楽ではなかったという。

白雲は少年の項、城山墓地下の地蔵堂の石の地蔵群を見て非常に興味をもち、ひまさえあればそこに行って地蔵をながめていたという。

白雲が後年彫刻家として名をなしたのは、まったくこの地蔵堂のおかげであるといって、白雲は晩年に感謝の気持をこめてこの地蔵堂に地蔵を奉納している。

こうして、彼は美術に強い関心をもち、その研究を進めたかったが家計を助けるため、高等学校卒業後、郷里の小学校の代用教員をつとめた。しかし、彼の美術に対する強い執着を、断ちきることが出来ないのを母がみぬいて、
「自分の長所はどこまでも伸ばしなさい。そのためには、全力をそれに集中しなければなりません」と彼をはげました。

この母は、かつて娘の時代に、坂本龍馬と将棋をさしたこともあるという女丈夫で、白雲の弟子であった横山隆一(漫画家)は、この母よりたびたび龍馬の話を聞いたということである。

母のはげましもあってか、美術に対する宿望を達せんと自ら貯蓄した10円の金を懐中にし、大阪へ向って無断で家をとび出した。明治21年6月24日、中天に星の光のまばらな夜半のことであったが、白雲は後年人に語って「この日の事だけは一生忘れることができない。」といっている。時に白雲18才の夏であった。

大阪では約1ヵ月滞在して師を求めたが何も得るところがない間に、懐中の金はわずか3円となって次第に心細くなってきた。そこでかねて母が依頼してくれていた山下という先輩の世話で、父の旧主伊賀陽太郎を頼って上京することになり、東海道をてくてくと歩いて、やっと東京にたどりつき、伊賀氏の門をたたいたのである。

こうして伊賀氏の世話になり、さらに岩村通俊の援助もうけて、高村光雲の門弟となって彫刻術を学び、さらに明治23年7月には東京美術学校彫刻本科に入学することが出来た。当時、同校の主任教授だった高村光雲は、特に白雲のすぐれた才能に目をつけ、在学中ずっと彼を家に引き取って日夜その指導に当った。彼の在学中に光雲は大楠公の銅像と西郷さんの銅像の制作に当ったが、当時は原型はすべて木彫であった、光雲は白雲を助手とし、白雲は全力をあげて師を助け、こうして宮城前の楠公の銅像と、上野公園の西郷隆盛の銅像はでき上ったのである。

白雪という名は、師高村光雲が名付けたものであり、さらに、美術学校卒業と同時に、母校の講師に招かれたことによっても、白雲が非凡の才能の持ち主であったことがわかるとともに、師の光雲が、いかに白雲を可愛がっていたかがよくわかるのである。

明治28年、岩村通俊が、維新の元勲諸氏の姿を後世に伝えようとの計画をたて、白雲にその仕事を委嘱した。白雲は強く感激し、直ちに学校を辞して独立し、ひたすら維新の元勲の像の制作に専念することになった。

白雲が、美術学校在学当時は、彫刻はすべて木彫だけであったが、明治31年には長沼守敬によって新たに洋風の彫塑が加えられた。白雲は、木彫出身ではあるが、早くも洋風の彫塑を取り入れ、守敬に教えをうけて「小児像」を大理石で作り日本美術協会に出品し受賞したが、伝統を重んずる光雲より大叱責を受けたという逸話も残っている。

明治32年には、美術学校の懸賞競技に、後藤二郎像が当選し、36年には品川弥二郎の銅像の原型を完成し、38年、海軍省の懸賞競技に応じて一等に当選、肖像彫刻に境地を開き、彫塑界に確実にその地歩を築いた。やがて、海軍省より西郷従道元師、川村純義大将の銅像の原型制作を命ぜられ、ここに軍部との密接なつながりができ上った。

その後、東郷元帥、大山元帥、松方侯、山縣公、永山中将、井上子爵、伊藤博文、岩村通俊などの銅像を次々と制作し、又県内でも大正元年には代表作山内一豊の銅像を藤並神社境内に建てた。次いで林有造、小野義真の銅像を作り、さらに片岡健吉、板垣退助、山内容堂の像が次々と完成した。桂浜に龍馬の像が建ったのが昭和3年であり、昭和10年には中岡慎太郎の像が室戸に建った。

板垣退助の銅像は、芝公園、高知城内、日光神橋側の3カ所にある。明治元年、戌辰の役の際、日光を戦火から護ったのは板垣であった。そのため日光にも板垣の像が建ったのであるが、その作はもちろん白雲であった。

白雲は相撲がすきで強かったが、酒もまた相当飲めた。しかし、いかに酒を飲んでも、つねに仕事のことを考えており、付近が大さわぎをしていても、白雲はいつも彫刻のことばかりであったという。

また非常に信念の強い人で、文展その他の美術展には参加せず、自分の技をねって不朽の名作を後世に残すことを使命と感じ、ひたすらそれに専念したのであった。

このように一心こめて制作した銅像も、戦時中に次々と応召し、すべて銅塊と化してしまった。名作山内一豊の像も姿をけし、郷里にあった林有造、小野義真の銅像も出陣した。この当時の白雲の気持は、まさに断腸の思いであったろう。白雲の子息、近思は、その当時のことを「父は根っこからの銅像作りで、原型の製作をはじめると、アトリエには、ほとんどだれも入れなかった。夜中でも感が働くと、そのまま仕事の鬼になってしまう。こんなとき、母の室にも、必ず電灯が淡くとぼっていたことを覚えている。

戦運は傾き、銅の回収がはじまり、遂に父の手になったかずかずの銅像のうちには、石の台座を残したまま、姿を消して行くものが多くなった。

忘れもしない、昭和19年暮の夜おそく、断続する空襲の中をくぐって、アトリエの前庭まできた私は、一瞬立ちすくんだ。父は、すでにスクラップにされてしまった明治の元勲の原型を1体1体、淡々として素手をもって叩き割っている。そのかたわらで母は、しずかに合掌していた。父がアトリエに入ったあと、母と私は、防空壕のそばに穴を掘って、打ち砕けた石膏の原型を埋めた。霜柱の凍りついた石膏のかけらが、手に冷たく感じはじめたとき、母子は、はじめて顔を見合わせた。そのころ、めっきり白髪のふえた母は、私の心の動揺を鎮めるかのように、いつもと少しも変らない落ついた表情であった。」と随筆に書いている。

白雲をみたある手相師は
「あなたは、政界に出馬しても一党のプレーンになれる人だ。総裁にならなくても、総裁を動かす人にはなれる。」といい、弟子の島村治文氏は
「彫塑家としても第一人者であったが、政治連動をやっていたら、もっと大した人物になっていただろう。先生は、林有造ばたけの新しい思想をもっていた教養人だったからね。」といっている。たしかにそのぼう大な仕事の量といい、たくましい行動力といい、どの分野に出ても、決してひけをとらない人物である。

昭和27年2月18日、82才の高齢で、東京世田谷の自宅で、静かに世を去ったが、彼の力作、龍馬の像は、今や観光土佐のシンボルとして、いつまでもいつまでもその偉容を後世に残すことであろう。

本山白雲 白雲作の西郷像(木彫)
本山白雲 白雲作の西郷像(木彫)
白雲筆富士山の図 本山白雲作の坂本龍馬像
白雲筆富士山の図 本山白雲作の坂本龍馬像
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