北見 志保子(きたみ しほこ)
明治18年~昭和30年(1885年~1955年)
-名歌「平城山」の作者-
『人恋うはかなしきものと平城山に』で始まる当時流行した「平城山」をつくったのが北見志保子です(本名 川島朝野)。宿毛小学校の教員をへて文学勉強のため17歳で上京、歌人としての道を歩みはじめ、多くの短歌を歌誌や歌集に発表しました。
また女流歌人の育成に尽力し、宮中歌会始の陪聴者ともなって、当時の女流歌人の第一人者として業績を残しました。
生い立ち
明治18年(1885年) | 宿毛に生まれる。本名 川島朝野 |
明治38年(1905年) | 宿毛小学校教師 |
明治39年(1906年) | 文学の勉強のため上京 |
大正14年(1925年) | 歌誌「草の実」創刊 |
昭和3年(1928年) | 歌集「月光」出版 |
昭和9年(1934年) | 小説「朱美作品集」出版 |
昭和10年(1935年) | 「平城山」「磐之媛皇后御陵」を発表 |
昭和25年(1950年) | 「花のかげ」出版 |
昭和26年(1951年) | 宮中歌会初めの陪聴者 |
昭和30年(1955年) | 死亡(70歳) |