去年の秋と言ってもまだまだ暑い日の続くなかを、橋田先生、市社教(ししゃきょう)の(当時の)間補佐ともども、 市内の城跡の調査に手をつけました。
時には蜂におそわれたり、クチメを警戒しながらの毎日でした。
そうしたものの中で、今に至るもその跡をきれいにとどめているものが、数多く残っている様子を見るにつけ、疲れもなにも忘れてしまう日々でした。
勿論、城といっても天主のそびえる堂々としたものではありませんが、数百星霜(せいそう)をさかのぼる昔、 それぞれの城にそれぞれの想いをこめた人々がそのよりどころとしたことを思えば、天主のあるなしなど、別の視点からみるべきではないでしょうか。
市内東西南北に残る城跡、約七十規模の大小構造の相違は見られるものの、土を盛り砦(とりで)をきずき、上下に横にと 深く長くかまえられた防護(ぼうご)のから堀、落葉に埋もれた所もあり、シダの茂みにかくされたものありでしたが、 新城山頂(しんしろさんちょう)など、その切り開かれた広さにおどろくほどの所も見られました。
松尾の道が土予の本街道なら、新城の日は裏街道の一つだったのでしょうか。往時ずいぶんの通行があったことも言い伝えられています。
そうした城跡にまつわる物語りもいろいろと聞くことができました。
ある城跡ではあちこち掘り返した跡がみられましたが、聞けば以前に宝物さがしである人がやった仕事だとのことでした。
黒く焼けた米粒が今もでてくるところもありました。
山奈・平田方面では、古い五輪の墓石がくずれて散在したり、いわゆる「貝が森くずれ」をまつったものといわれるものが、多く見かけられました。
今では道であったことすら分らなくなっている昔の遍路道、その道の辺にぽつんと建つ小さなものであろうと思われます。br />
そうしたものにも、往時と今のかかわりを思考しながらの調査でした。
岩場をよじ、藪(やぶ)をくぐりして探し出した一条の堀。
これらは橋田先生のご努力でまとめられ、記録はいつまでも残されることになりました。