市営渡船(しえいとせん)で海を渡るとそこには、やしの実の流れつく海、やさしい人の情(なさけ)と美しく燃える 太陽の島、沖の島があります。
ここにもまた、さまざまな物語が語り伝えられてまいりました。
昔々のことでした。
目の前には青い海が広がり、うしろには緑の山が重なっている村がありました。
きれいな海で魚をとったり、せまいながらも田んぼを耕(たがや)して暮らしをたてる一家がそこにすんでいました。
離れたところでも、稲の作れるところはせっせと耕しに出かけました。
他の浦には小舟でいききしました。
今年もまた梅雨の合間に田植えを始めました。遠くの田んぼに弁当もちで出かけることにしました。
子供も一緒に乗せて連れて行きました。子供は男の子と女の子でした。
浜辺に着くとお父さんは手伝いの人を頼みに行きました。
お母さんは田んぼに水をおとしたり、お茶のかまえでいそがしかったのです。
すぐに帰ってくるはずのお父さんが、ついつい手間取ってしまいました。お父さんは、すぐに帰ってくるつもりでしたから、 舟をしっかりとつないでいませんでした。おおかたの荷物もそのまま舟の中においたまんまでした。
二人の子供たちは遊びつかれたのでしょうか、小舟の中でねむってしまいました。そのうち、潮の流れが二人の子供を乗せたまま、小舟を沖の方へもっていってしまいました。
帰ってきたお父さんは舟の見えなくなったことを知り、お母さんと二人で気の狂ったようにさがしまわりました。
しかし残念なことに、どうしても見つけることが出来ませんでした。
潮にさらわれた舟は、そのうち大きな島に流れつきました。
始めは泣き叫んでいた二人でしたが、けなげにも力を合わせて、舟にそのままつんであった鍬(くわ)を使って土を 耕しはじめました。
稲の苗も秋には立派(りっぱ)な実をつけてくれました。そのあいだ貝を掘ったり、山の芋など、自然のめぐみで命をつなぎました。
だんだんとお米もたくさんとれるようになりました。
年月がたつのは早いもので、いつの間にか二人はたくましい青年とやさしい娘にそだっていました。
二人は結婚(けっこん)して子供が生まれました。家族がだんだんとふえました。
別れたお父さん、お母さんの顔は見ることのできない島の生活でしたが、
それでも明るい毎朝を迎えることができるようになりました。
いつの頃からか、人々はこの島を妹背島(いもせしま)と呼ぶようになりました。
昔はお嫁さんのことを妹(いも)とよび、旦那(だんな)さんのことを背(せ)の君(きみ)などとよびました。
ですから、ふたりの流れついた島、一緒に暮らした島ということを伝えるつもりでよびはじめたのではないでしょうか。
今は、沖の島とよばれていますが、島で一番高い山を妹背山(いもせやま)と名づけ、その名残りはのこされているのです。
子供たちの生まれ故郷(こきょう)がどこだったのか、残念ですがわかりません。