とうにあの世の暮らしにはいって行った年寄りから、こんな話を聞いたことがありました。
今でこそこの附近には火山というものは無いが、ずっとずっと昔、お篠の頂上が火をふいておったそうな。 今でもあちこちに出ている硫黄(いおう)くさい水は、その頃の名残りじゃそうな。楠山(くすやま)の奥に出井(いでい)という所があるが、 ずいぶん昔からの名前じゃろう、と。
そのお篠の頂上に、ほんの小さなくぼみが残っていますが、これが噴火口の跡だと言う人もあります。そのくぼみを 矢筈(やはず)の池と呼ぶ人があります。
矢筈の池はそれはそれは不思議な池で、千メートルあまりもの高い所にあるのに、海の潮が満ち始めるとだんだんと水かさがまして来るのです。 引き潮になるとだんだんとへって来るのです。
ある夏の日のことでした。
一人の尼さんがこの山を登っていました。なにぶんけわしい山道ですから、肌着もなにも汗まみれになってしまいました。
頂上にたどりついた尼さんは、水をたたえた矢筈の池を目の前にして、誰も近所に居ないのを幸(さいわい)と裸になって汗をぬぐい、肌着のせんたくまですませました。
ところがそのうち、池の水がだんだんと減り始め、とうとういつまでたっても潮の時が来ても、ふたたび水のふえることがなくなってしまいました。
尼さんとはいっても肌着まで洗われて、矢筈の池がおこってしまったのだと言われます。
ところで、池の水がなくなってしまって一番困ったのは、篠の連山(れんざん)を住家にして空をかけめぐり、あちらこちらと雲を呼び、雨を降らせて暮らしていた竜でした。
夜毎(よごと)に矢筈の水をたらふく呑んで力をつけていたのですが、それ以来きれいなおいしい水を呑むことができなくなってしまいました。
竜はしかたなく新しい住家を求めて、遠い遠い空のかなたに旅立っていったということです。
それから、幾百(いくひゃく)の星霜(せいそう)が流れ去りましたが、ついにふたたび満々とした水をたたえることはなく今日(こんにち)に至っているといわれます。
篠の竜は一体どこで暮らしていることでしょうか。