荒瀬を越ひた向こう側の津賀ノ川や三原の方やら、それに小三原らあの水を集めち伊与野から湊(みなと)の浜い流れ込んじょる川を伊与野川いう。
その川を伊与野からちいと奥い行くと小三原口、その口あたりから大曲りんなり高さがかれこれ百二、三十メートルぐらいの山の一方を残ひてとりまく様に流れちょる。その山なかなか険な山で岩場もごつごつ顔をだひちょる。
昔、依岡源兵衛(よりおかげんぺい)という大将が守っちょったという石の鳥屋城いうのがこの山にあった。
山の名前は立石山いうそうなが、その上の方一帯城跡で、今でもその跡あよう残っちょる。川の様子も山の様子も城をつくるにやあもってこいの様子をしちょる。城跡い登っちみたら誰でも気んつくこっちゃろうが、あっちこっちに掘り返した様な跡んある。
城におった兵隊らが必要あってつくったもんとは思えんような堀り跡じゃけん、不審に思う者がおるのも当然じゃろうが、よくよく聞いちみよるとそんげなもんがなし出来たがか判っち来た。
実の所はその掘り跡、明治も二十年頃いうこっちゃからかれこれ百年程も前のことんなるが、南の方のある人に神さんか佛(ほとけ)さんかそこらへんしかとしたこたあ 判らんが、とにかくどっちかが夢ん中い出ち来ち石の鳥屋の城跡を掘っちみよ、宝物が出ちくるぞいうお告げをくれたというこっちゃ。
それからというもん、毎日毎日の城跡掘りが始まったが、掘っても掘っても宝物あ一向出ち来なんだちゆうこっちゃ。
古い城跡にやあそんげな話がようあるが、ちょっぴり夢をみるにゃあ面白かろう。
それかと言うて、そうそう話どおりに出てくるもんでもなかろうに、なかなか本気で掘ったもんと見える。
本人とにかく一生懸命掘ったにゃあちがいなかろうが、その掘りに自分らがまよわされた。
幸い地元でくわしい人が居り、そうしたいわくをはなしてもらえ、なっとく出来たのが有難かった。
今でもまだまだあっちこっちに、いわくいんねんこじらいれきのあるもんがようけ残っちょると思われるが、一応筋道たてて手をつけるがじゃったら、つけた方がくどくんなると言うものじゃあなかろうか。