空はきれいな夕焼けでした。
からすの群れが明日の天気を約束するように、はやばやとねぐらに帰って行きます。
ふと見あげた柿の梢(こずえ)に、取り残された実がひとつ、まっかにうれて光っていました。
今年も、おじいさんの庭の柿は豊作(ほうさく)でした。
つやつやした実を、長い竹の先を割って、木ぎれをちょっぴりはさんだ竿でちぎっては、子供達にご馳走(ごちそう)するのがおじいさんの楽しみでした。
今年も近所の子供達が大勢(おおぜい)でやって来てご馳走になりました。 おじいさんはどの子にも、たくさんとってやりました。
そのうちいっぱいなっていた柿の実も、とうとう、おしまいの一つだけになりました。
そのとき、
去年もご馳走になった子供達の一人が言いました。
「おじいさん、もうたった一つだけですよ。
木守り(きまもり)に残しておかんといけないでしょう。」
その子は、去年おじいさんから聞いた木守りの話を思い出して、そう言ったのです。
おじいさんは、竹竿から手を話して、こう言いました。
「そうだなあ。まだ食べたい子もいるだろうが、あのてっぺんの一つだけは残しておこう。そうしたら来年も、 また、たくさん実をつけてくれるだろうから。」と。
子供達はこっくりして、
「ありがとう。」と言って帰っていきました。
柿も栗も桃も、たくさん実をつけてくれるし、山々の木がすくすく大きくなってくれるのも、みんな神様(かみさま)が木の先にとまって見守っていて下さるからです。
おじいさんは、そんな話を子供達に聞かせてやったことがあったのです。
木を切っても、そこここに一本切り残してありました。
それは、空を飛びながら山々を見まわりして下さる神様のとまり木でした。
おじいさんやおばあさんにたずねてみて下さい。 「木守りというものを知っていますか。」と。「ああ、知っているよ。」と答えて下さるお方が、 まだまだたくさんおいでることと思います。
ひなたぼっこをしながら、おばあさんもこんな話を孫達(まごたち)にしてやりました。
こうして天のめぐみに感謝し、次の年への期待をこめた暮らしを続けてきたのが、私達の先代達でした。
木枯らしがふき始めても梢の木守りは、夕日を受けて今日もかがやいていました。